哲学歴史

キングダムに登場した“韓非”について②〜韓非と韓非子〜

哲学

 

前回記事では、韓非を話す上で欠かせない孟子と荀子についてまとめていきました。

 

性善説と性悪説の棲み分けや考え方の違いについて把握している、と今回の記事が読みやすいと思います。

 

今回はいよいよ韓非についてのお話です。

 

彼の考え方や著作についてまとめていきます。

 

 

韓非について

韓非(紀元前280~233年)

 

韓非は、キングダムの舞台でもある戦国七雄の中で、最も小さい国であった韓の人物です。

 

王族の生まれで、幼い頃から極度の吃音があったとされています。

 

言葉ではコミュニケーションがうまく図れない分、ものを書くことにおいて才能発揮したことで知られています。

 

男性の敬称である“子”をつけて韓非子と呼ばれることもあります。

 

また、彼の著書のタイトルも“韓非子”と少しややこしいで、この記事では人物の方を“韓非”として記していきます。

 

韓非は李斯と共に荀子の下で学んだとされていますが、書“韓非子”に荀子に関する記載がほとんどなく、書“荀子”にも韓非の記載がほとんどないことから、実際にはどのような関係だったのかは明らかではありません。

 

この頃の時代背景として、韓は秦と楚という巨大国からの脅威にさらされていました。

 

 

特に秦は、中華統一に向けて韓を属国化する動きを見せており、韓非はそれを含めた周辺国の対処を韓王に進言しますが聞き入れて貰えませんでした。

 

韓王安の時代になると、韓の交渉人として韓非が使者として秦を訪れることになります。 

 

秦王政自身、韓非子を愛読し、彼の思想に共感していた部分もあったことから、韓非が秦に訪れた際には彼を臣下として登用しようと考えました。

 

それを良くは思わないのが同門だった李斯(生年不詳~紀元前208年)です。

 

李斯は、秦の法家として重宝されていた人物ですが、それ以前の出世をたどると平民から実力で役人にのし上がった人物でもあります。

 

便所のネズミと屋敷のネズミは、同じネズミでも食べるものも生き方も全く違うといったように、世の中は結局環境によって左右されることを嘆きます。

  

それをきっかけに、役人の地位を捨て荀子の門を叩いた人物です。

  

生まれた時から王族の考え方に触れ、その闇を見てきた韓非は、平民の現状を見、努力でのし上がった李斯の思惑が交錯していくのです。

  

  

書“韓非子”の組織論

韓非子において秦王政が注目を置いたのは、韓非が考える組織論です。

 

韓非は荀子の教えである“性悪説”を軸に、組織のあるべき姿や守るべき法などについて、全55篇、10万以上の言葉を書き残していました。

 

彼が記したのは法のみならず、“人の本質とは何か”、“他人とどう関わるべきか”など多岐に渡ります。

 

ここではその一旦に触れていこうと思います。

 

「黄帝有言、曰、上下一日百戦」

黄帝(古代中国の神話三皇五帝の一人)は言った、上に立つ者と下に立つ者は一日に百もの戦いをする。

 

これは、一日という短い間でも、上司と部下は顔を合わせたり会話をする度に何度もお互いの力量を図ったりするという意味です。

 

場合によっては、いつ相手を貶めてやろうか、あいつの上に立つにはどうしたらいいか……といった思惑も働くことでしょう。

 

こういったいつ崩壊するかも分からない組織を保つために必要となるのが刑と得だと韓非は述べています。

 

刑は、死罪をいとわぬ重い刑罰。

 

得は、褒めて褒美を与えることです。

 

そしてそれをトップ自らがしっかり取り仕切ることが必要だと言います。

 

罪を犯した者が過去にどれだけ良い功労者だったとしても、特例などは一切排除し、他の罪を犯したものと同様の処罰を与える。

 

功を成した者は誰であろうと、トップ自らがそれを労い、決めた褒美を与えること。

 

決め事に例外をもたらすのは、組織崩壊の糸口になりかねません。

 

現代の法に照らし合わせると、何事にも例外はあり、情状酌量も含めて刑が決まるというのが通例ですが、常に命のやり取りのあった中華戦乱の時代には厳格な取り決めが必要だったのでしょうね。

 

「巧詐不如拙誠」巧詐(こうさ)は拙誠(せっせい)に如(し)かず

どんなに巧みにごまかそうとしても、下手であっても誠意ある言葉や行動には及ばない。

 

巧偽拙誠”という四字熟語の語源となった言葉です。

 

韓非子説林篇では、この言葉を表わすストーリーが記されています。

 

楽羊と言う名の魏の将が、中山を攻めた時の話です。

 

このとき楽羊の子は中山に人質に取られていました。

 

楽羊が攻めてきたことを知った中山王は、人質にしていた子を殺し、その肉でスープを作り楽羊に送り付けました。

 

楽羊はそのスープを飲み干し、中山国を滅ぼしました。

 

魏の君主である文侯は、我が子がスープにされても、敵国を攻め滅ぼした楽羊を称えますが、側近の堵師賛はその功に対してこう中傷します。

 

「(略)我が子の肉を食べるのであれば、誰の肉でも食べるのでしょうな」

 

これを聞いた文侯は、楽羊の行いが必要に以上に取り繕ったものと考えられ、逆に怪しく感じるようになってしまいました。

 

楽羊には中山国の最大の都市を褒賞として与えましたが、それ以降彼を警戒する様になってしまいました。

 

これが韓非が示した“巧偽”の例です。

 

次に、韓非が示したもう一つ例を紹介します。

 

魯の君主である孟孫(もうそん)が猟をしていたときのこと。

 

小鹿を捕まえた孟孫は、部下の秦西巴(しんせいは)に小鹿を持ち帰るように命令しました。

 

孟孫が帰ると、秦西巴に小鹿を連れてくるよう命じます。

 

すると秦西巴は、「小鹿が哀れだったので、母鹿の元に帰しました」と述べました。

 

孟孫はこれに怒り、秦西巴を追放してしまいました。

 

しかし3ヶ月が経った頃、孟孫は秦西巴の追放を取り消し、我が子の守り役を命じました。

 

孟孫の御者は聞きました。

 

追放した者を我が子の守り役に命じたのは、一体どういうわけでございますか

 

孟孫はこう答えました。

 

小鹿さえ哀れに想う心があるなら、私の子も愛情をもって育ててくれるだろう。誠に子守役にふさわしい人物である

 

これが韓非が示した“拙誠”の例です。

 

功を挙げながらも最後は疑われた者、罰せられながらもますます信用された者。

 

自分を大きく見せようと取り繕うのではなく、罰せられる事を恐れず心のままに良いと思ったことを行う。

 

こういった例えなどを踏まえて、人や君主がどうあるべきかについてを説いていったのが“韓非子”です。

 

 

まとめ

・韓非は秦の中華統一後の立法において大きな影響を与えた人物

・性悪説を軸に法の大切さを説いていく

・同じく荀子の弟子である李斯の謀略に呑まれていく

 

以上、韓非についてのまとめでした!

 

あまりネタバレにならないように彼の結末などはまとめていません。

 

気になる方は、キングダムで続きをお読みください。

 

ちなみに、巧偽の例のときに滅ぼされた中山国ですが、後に中山王によって魏から独立することになります。

 

そして独立後の中山には楽羊の子孫である“楽毅”が武将として存在していました。

 

キングダムにも大将軍級の武将として紹介されていました。

 

キングダム 252話

 

経緯は不明ですが、楽羊の家系のどこかのタイミングで中山国に移ったようです。

 

もしかしたら巧偽拙誠の逸話が、楽家の方針に影響を与えたのかもしれませんね。

 

次回記事

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