【前回記事】
この記事ではアダム・スミスの国富論を読み解いていきます。
見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。
経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。
前回は、“富裕の進歩”についてまとめていきました。
都会と田舎が相互に影響し合う関係が、国家の富を生み出すと分析したスミス。
秩序によって保たれた自由が、市場のバランスを保つ要因であることを述べました。
今回からまとめていく第四編は、経済学の根幹を成す、“政治経済学”についてまとめられています。
これまで述べてきた、政府、人民、商業、貨幣、資材などを踏まえながら、経済学の目的について彼が述べた内容に触れていこうと思います。
経済学の目的
〜引用 第四編 序章より~
政治学または立法学の一部門と考えられる経済学は、二つの個別の目的を立てているのであって、その第一は、人民に豊富な収入または生活資料を供給すること、つまりいっそう適切に言えば、人民が自分のためにこのような収入または生活資料を自分で調達しうるようにすることであり、第二は、国家すなわち共同社会に、公共の職務を遂行するのに十分な収入を供給することである。
経済学は、人民と主権者との双方を富ますことを意図しているのである。
〜引用ここまで〜
経済学の目的は、人と国を富ますことであると述べたスミス。
人には豊富な収入と生活資源を、国には国として成り立つ公務を行う収入を得られる道を追求することが富であると主張しています。
日常的には富と貨幣が同じ意味で使われることが多いですが、彼の分析ではそれは違うとされています。
以下に国富論に見られる金・銀貨幣についての見解をまとめていきます。
貨幣=商業の用具&価値の尺度
〜引用 第四篇 第一章~
富が貨幣あるいは近隣に存するということは、貨幣の二重の機能、つまり商業の用具としてのそれと、価値の尺度としてのそれとから、自然に生じてくる通俗的な見解である。
それが商業の用具であるということの結果として、我々は、貨幣さえ持っておれば、他のどのような商品によるよりも、いっそう容易く我々が必要とする、およそどのようなものでも獲得することができる。
我々が常に当面する大問題は、この貨幣を手に入れるということである。
我々は、富者のことを、多額の貨幣に値する人といい、また、貧乏人の事をごく小額の貨幣にしか値しない人という。
倹約家または富もうとあくせくしている人は金を愛する人と言われ、不注意な人、ものをしみしない人、または、浪費者は金遣いに無頓着な人と言われる。
富むようになるということは、貨幣を手に入れるということなのであって、要するに、富と貨幣とは、日常用語であらゆる点において同義と見なされているのである。
〜引用ここまで~
スミスは、貨幣には商業の用具としての面と、価値を測る尺度としての面があると述べています。
必要な量の貨幣があれば、様々な商品をすぐに手に入れることができ、その便利さはいうまでもありません。
富と貨幣は、日常において同じ意味で使われていたという前提を彼は述べています。
ロック「消費財は使えば無くなる」
〜引用 第四篇 第一章~
富者の場合と同じように、富国とは貨幣が充満している国だと思われており、またある国に金銀を積み上げることが、その国を富ませるための最も手っ取り早い道だと思われている。
ロック氏は家へとその他の動産的財貨との間の区別に注目している。
彼が言うところによると、全ての動産的財貨は極めて消費されやすい性質を持っているから、それらに存する富は、大してあてにできないのであって、ある年にはそれらに充満している国民でも、何一つとして輸出せず、ただ単に自分たちが浪費や贅沢をしたというだけのことで、その翌年にはそれらの大不足に陥ることもあり得る。
これに反し、貨幣は堅実な友であって、例え人の手から手へと歩き回ることがあるにしても、国外に出ていけないようにしておきさえすれば、そう、容易く浪費も消費もされはしない。
それゆえ、彼によれば、金・銀は、国民の動産的富の中のもっとも堅牢で実質的な部分であり、また、こういう理由から、これらの金属を増殖することこそ、その国民の経済学の大目的でなければならない、と彼は考えているのである。
〜引用ここまで~
イギリスの政治哲学者だった、ジョン・ロックも、「富国とはより貨幣の多い国だ」と主張していました。
消費財をはじめとする生産物は、使えば無くなってしまうのであって、富としてはあてにできないという考えがあったようです。
金や銀やそれに近い性質をもつ貨幣を国外に流出しないようにし、それら金属を増殖させることが国の富を増やす手段であると、ロックが述べていたことをまとめています。
貨幣の使い道は財貨を買うこと
〜引用 第四篇 第一章~
財貨は、貨幣を購買する以外の多くの他の目的に役立つけれども、貨幣は財貨を購買する以外には全然役立ち得ない。
それゆえ、貨幣は、必然的に財貨の後を追わざるを得ないが、財貨は必ずしも常に、また必ずしも必然的に貨幣の後を追うとは限らない。
財貨を買う人は必ずしも常に再びそれを売るつもりではなくて、それを使用するか、または消費するためにそうする場合がしばしばあるが、それを売る人は常に再びそれを買うつもりでそうするのである。
前者は、自分の仕事を全部遂行する場合がしばしばあるであろうが、後者は、決してその半分以上も遂行できない。
人々が貨幣を欲求するのは、それ自体のためではなくて、自分たちがそれで購買し得るもののためなのである。
〜引用ここまで~
ロックの意見に対象スミスは、お金はあくまで、ものやサービスを受けるために使うしかないということを言っています。
生産物を売ったりするのは、お金が欲しいからではなく、もらったお金をものやサービス、経験に使うことで得られる効果を期待しているからということですね。
スミスは、使い道がないと、ただの金属片でしかないと述べています。
貿易は金・銀を溜め込むものでは無い
〜引用 第四篇 第一章~
金銀の輸入は、一国民がその外国貿易から引き出す主要な利益ではないし、まして唯一の利益ではない。
およそどのような地方の間に外国貿易が営まれるにせよ、これらの地方の全ては二つの個別の利益をそれから引き出す。
それは、これらの地方の土地及び労働の生産物の中で、そこでは需要のない剰余部分を国外に持ち出し、それと引き換えに、そこで需要のある何か他のものを持ち帰る。
それはこれらの地方の、冗物を、そこでの欲望の1部を満足させ、享楽を増加させる他の何者かと交換することによって、これらの冗物に価値を与える。
そのおかげで国内市場が狭くても、技術又は製造業のある特定部門における分業が最高度に完成されるのを阻止されるということがなくなる。
それは、これらの地方の労働の生産物のどれほどの部分が国内消費を超過しようとも、この部分に対するいっそう広大な市場を解放することによって、これらの地方が生産諸力を改善し、また年々の生産物を最大限に増加させ、ひいては社会の実質的収入および富を増加させる事を奨励する。
〜引用ここまで~
外国貿易の主な利益は、金銀の輸入ではなく、国内余った生産物を国外に持ち出し、国内で需要のある何かを持ち帰ることにあるとスミスは述べています。
金・銀を如何に溜め込むかと考えられていた時代では、どれだけ輸入を減少させ、輸出を増やすかという点が常に考えられていました。
ただそれは、金・銀があることで別の何かに交換しやすくなるだけであって、実質的な富を表わしていないことを彼は主張したのです。
まとめ
・経済学は、国と人を富ますための学問
・富と貨幣は同じ意味ではない
・ロック「富とは金・銀貨幣だ。」
・スミス「富とは需要のある消費財だ。」
現代での経済学は、社会全体のお金やモノの動きを分析する学問という見方が主流です。
人、モノ、金、情報をどのようにコントロールすれば、皆が豊かに暮らせるかを探求する分野でもあります。
その考え方の根幹が、今回まとめた第四編一章に強く見られます。
ジョン・ロックが貨幣の数量を重視し“貨幣数量説”を説いたように、アダム・スミス以前の経済学においては金銀の蓄積に重きを置く重商主義が一般的であり、貨幣は特別なものとされてきました。
スミスはこれ異を唱えながらも、さらに肉付けをしていったように感じます。
ロックの言う通り、貨幣は確かに便利で重要ですが、金・銀貨幣はあくまで道具でしかなく、貨幣の目的は需要のある必需品や便益品などに交換することだと言っています。
これら消費財の蓄積こそが富であるといい、この一連の流れが重商主義批判として知られる彼の主張なのですね。
これに加え、市場に流通している金属片を収入で表すと、生産物で表される収入と同じにならないこともその理由の大きな部分を占めていると考えられます。(【国富論⑥】国の富は金・銀ではなく消費財参照)
現代でも通用するお金の本質に迫った内容でもありますね。
“お金は貯めるものではなく使うもの”という言葉はどこかで聞いたことがありますが、このアダム・スミスの考えも影響しているだろうと考えています。
何も考えずお金を持っていてもしょうもないことに使ってしまうことが多いですが、工夫すれば貴重な経験や一生ためになる知識など、払ったお金の価値以上の何かを得ることができます。
そんな意味でも、お金の付き合い方を学ぶというのは有意義であると考えられます。
【次回記事】
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