【前回記事】
この記事ではアダム・スミスの国富論を読み解いていきます。
見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。
経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。
前回は、貨幣と紙幣について触れていきました。
貨幣の価値とは、貨幣自体の金属としての価値ではなく、それと交換できる消費財などの量であることをまとめたアダム・スミスは主張しました。
また、国の富は金・銀貨の蓄量ではなく、消費財などの財貨の量であることも指摘し、紙幣と貨幣をコントロールすることが国の富を増やす道であると述べています。
では富の差はどのようなに生まれていくのか。
今回のテーマ、“富裕の進歩”にて触れていきます。
富裕の進歩
〜引用 第三編 一章より~
あらゆる文明社会の大規模な商業は、都会の住民と田舎の住民との間に営まれるものである。
それは、直接にか、あるいは買えまたは貨幣を代表するある種の紙幣を介在させてかのいずれかしながら、粗生産物を製造品と交換することにある。
田舎は都会に生活資料や製造業の原料を供給する。
都会は田舎の住民にその製造品の一部を送り返すことによって、この供給にむくいる。
物質の再生産が全然行われず、またそれを行うことも全然できない都会は、実はその富谷生活資料の全部を田舎から得ている、と言って差し支えなかろう。
けれどもそうであるからといって、我々は都会の利得は田舎の損失だと考えてはならない。
両者の利得は、相互的であり語形的でもあるのであって、この場合の分量は他の場合と同様、細分された色々の職業に従事する様々な人々の全てにとって有利なものなのである。
田舎の住民は、自分が手を下して調整しようとする場合に使用するであろうよりもはるかに少量の自分自身の労働の生産物で、比較的大量の製造品を都会から購買する。
都会は田舎の余剰生産物に対して、つまり、耕作者の生産資料以上のものに対して市場を提供し、そして、この市場においてこそ、田舎の住民はその養生生産物を自分たちの間で需要されている、他の何ものかと交換するのである。
~引用ここまで~
第三編の冒頭では、都会の田舎における大規模な農業や工業は、お互いに良い結果を生み出していると述べています。
都会で必要な生活資料を田舎の農家から得て、逆に田舎は都会で製造した製品を送ってもらう。
自分で工業製品を生産するよりもはるかに楽に、便益品を享受できるとし、これも分業の効果の一つであるとされています。
以下にまとめていくのは、この都会や田舎、商業が織りなす富についての話になります。
都会の発展と田舎の利益
〜引用 第三編 四章より~
商業や製造業を営む都会の発達と富とは、それらが所在する田舎の改良や耕作に、次の三つの異なる方法を通じて貢献した。
第一に、都会は、田舎の粗生産物に手近な市場を提供することによって、田舎の耕作やいっそうの改良に刺激を与えたこと。
第二に、都会の住民によって獲得された富は、売り物で、しかもその一大部分が未耕作の土地を購買するのに使用されたこと。
第三に、商業と製造業とは、それ以前には隣人に対するほとんど間断なき戦争状態と上層の者に対するほとんど間断なき奴隷的従属状態との下に生活してきた田舎の住民との間に次第に秩序と善政とを、また、それに伴って個人の自由と安全とを導入したこと。
~引用ここまで~
スミスは、都会の富と発展が田舎の利益になった理由として、三つの点が考えられると述べています。
①都会が田舎の生産物に市場を提供していたこと
②商人が田舎の土地を購入し、改良していったこと
③秩序によって個人の自由と安全が確保できたこと
特に彼は、第三の要因である商業と製造業の発展によって秩序と善政が敷かれたことを強調しています。
外国商業や製造業が導入されるまで、大土地の所有者は従者を扶養することで精一杯でした。
百人、千人の従者や郎党に対して土地の生産物を与えるため、余りを扱う余裕がなかったとされています。
しかし、分業によって生産効率が上がり外国商業と製造業が発展してくると、余った生産物を自由に取り扱う余裕やその使い道も増えていきます。
その結果、人民が飢えに苦しむことは少なくなり、秩序も保たれるようになったと分析しています。
富める者と扶養のバランス
〜引用 第三編 四章より~
外国商業というものがなく、また比較的精巧な製造業というものも全然ない国では、一年に一万ポンドの収入のある人にとっては、それをおそらくは一千家族を扶養することにでも使用する以外、容易く使える道もなかろう。
そこで、これらの家族は必然に彼の支配の下に置かれるのである。
ところが、ヨーロッパの現状では一年に一万ポンドの収入のある人は、二十人の人を直接扶養することもせず、と言って支配する価値さえもない十人以上の従僕を支配することもできずに、自分の全収入を消費しうるし、また現に一般にそうしている。
間接にでならば、おそらく彼は、昔の支出方法によって扶養しうるであろうのと同数またはそれ以上の人々を扶養しているのであろう。
なぜかと言えば、例え彼が自分の全収入と交換する効果の生産物こそ極少量であるにしても、それを収集したり、調製したりするのに使用された職人の数は極めて多数であったに違いないからである。
~引用ここまで~
現在では、昔のように一人の富める者が数千の従者を扶養することが難しくなった現状を述べています。
生活のコストや消費先が増えたこと、もとは従者であっただろう者が自由になったことによる需要と供給のバランスによって、良くて数二十人程度を養う程度になっていたそうです。
その代わり、ある製品を購入した際、各地で生産に係わった人達に賃金として渡されるため、間接的には多くの人に対して扶養することができるとも言っています。
規制ではなく自由
〜引用 第三編 四章より~
ヨーロッパでは長子相続法やさまざまな種類の永代所有権が大土地資産の分割を妨げ、またそうすることによって小土地所有者が増加することを阻止している。
小土地所有者というものは、自分の小さい土地を隅々まで知り尽くしており、その全てを財産の中でもとりわけ小財産が自然にかきたてる愛着の目で見、また、それだけに、それを工作するばかりではなく、飾り立てることも楽しみにするものであって、一般に全ての改良家の中で、彼は最も勤勉で、最も賢明で、しかも最も成功的な改良家なのである
さまざまな規制は非常に多くの土地を市場から締め出してしまうので、そこでは常に売地よりもそれを買おうとする資本の方が多いくらいであり、また、そのため売地は常に独占価格で売られているのである。
~引用ここまで~
土地はその土地を知る者が扱うべきであって、法や制度によって所有を規制するものではないとスミスは述べています。
彼は、当時のヨーロッパと植民地北アメリカを比べ、ヨーロッパの規制だらけの土地と、北アメリカの自由に開拓してく様子とでは、北アメリカの方が圧倒的に生産性も高いと指摘しました。
土地の自由化による価格の安定
〜引用 第三編 四章より~
北アメリカでは五、六十ポンドもあれば、栽植を始める資材としては十分だ、ということが知られている。そこでは最小の資本にとっても最大の資本にとっても未耕地を購入して改良するということが、その最も有利な使途であり、また、これがこの国で獲得しうる一切の財産や功績への一番の近道なのである。
実際、北アメリカではこれくらいの土地ならばほとんどただか、またはその自然的生産物の価値をはるかに下回る価格で手に入れることができる。
しかし、ヨーロッパや、また全ての土地がずっと前から私有財産になっているどこかの国とかでは、こういうことは実際のところ不可能なのである。
しかしながら、もしもろもろの土地資産の一所有者が多数の家族を残して死に、これらの資産がそのすべての子供達の間で平等に分割されることにでもなれば、分割された資産は一般に売り出されるであろう。
そこで、非常に多くの土地が市場に出てくることになるであろうから、それはもう独占価格では売れなくなるであろう。
その土地の自由地代は、購買貨幣の利子が支払われる程度にいっそう接近していき、その結果、土地を購入するのに小資本を使用しても、それを何か他の方法で使用するのと同じくらい有利だということになるであろう。
〜引用ここまで~
スミスは北アメリカを例に、自由度が高く消費財を生産することは国が豊かになる近道だと言っています。
また土地でさえも分割できれば、需要と供給によって価格が安定し、当時の独占価格は崩れているだろうと考えました。
まとめ
・都会と田舎の良い関係が富を生み出す
①都会が田舎の生産物に市場を提供
②商人が田舎の土地を購入し、改良
③秩序によって個人の自由と安全を確保
・外国商業と製造業の発展は、自由と秩序を生み出す
・規制ではなく自由によってバランスを保つ
以上、富の進歩についてのまとめでした。
ルールで縛るのではなく、ある程度の自由によってコントロールしようという考え方ですね。
アダム・スミスも、国を豊かにするためには完全に自由化させるのではなく、政府による最低限の介入は必要であることは国富論の端々に見えます。
第三編までまとめても完全に自由放任というわけではないことが分かります。
この規制と自由は、集まる人の能力が低いほど、ルールが厳しくなっていくという法則に似ているよう感じます。
国ではなく人間だとしても、あれをやれ、これはやるなと口出しをされると嫌になりますよね。
教育においても、ある程度自由に目標を決めさせて、何か違う方向に行きそうなときに「調子はどう?」と声をかける程度が一番コントロールできたりするものです。
また別の観点では、仕事によって自由が制限されるというのも悩みではないでしょうか?
仕事のために自由を切り崩しているのか、自由を得るために仕事をしているのか。
自由を削って仕事をし、お金をためても使い道がなければ本末転倒です。
アダム・スミスは、国の富みは金・銀の蓄財ではなく、使える何かに交換することだと言っていますが、それは人間でも同じように考えられますね。
仕事、自由、お金……。
国富論はこれらについて立ち止まって考える、良いきっかけになるかもしれません。
【次回記事】
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