芸術

高慢な絵描きか革命の火種か~ギュスターヴ・クールベ~

芸術

  

ギュスターヴ・クールベ(1819~1877年)

 

今回紹介するのは写実主義の第一人者ギュスターヴ・クールベです。

 

革命と騒乱の19世紀フランスで、宗教的、神秘的なロマン主義ではなく見たものをそのまま表現しレアリスム運動の大きな火種を生んだ人物です。

 

自信家で高慢でありながらも、人を惹きつけてやまなかったクールベの人生についてフォーカスしていきます。

 

 

オルナン村のクールベ

ギュスターヴ・クールベ作「パイプをくわえた男」1848~1849年

  

クールベはフランス東部の山中にある村オルナンにて生まれました。

 

父は裕福な地主で幼い頃から不自由なく暮らしていたクールベ。

 

中学から高校の頃にかけて勉学の傍らデッサンを学んだ彼ですが、父は彼を法律家として育てるべくパリのソルボンヌ大学法学部へ入学させます。

 

パリと言えば芸術の都。

 

彼は父の意志に反し、画家になることを決意。(この頃21歳前後)

 

画塾に通い、ルーヴル美術館に飾られている数々の作品を模写しながらパリの芸術に染まっていきました。

 

しかし彼の画家としての人生スタートは少々渋いもので、サロンへ多数の作品を出すもどれも鳴かず飛ばず。

 

それにもめげずに絵を描き続けた彼は、25歳の頃ついに“黒犬を連れた自画像”がサロンで入選。

 

 

少しずつクールベに日の目がが当たり始めたかと思うも、その後は一定の評価にとどまることになります。(それでも凄い結果を出していますが……。)

 

そのときの彼の理想とのギャップに苦しむ心情を描いたものが、彼の作品音中でも有名な自画像“絶望”です。

 

ギュスターヴ・クールベ作「絶望」1843~1845年

 

それまでの絵画の評価では神話画や宗教画などが主に高い評価を得ていたこともあり、“そのときをそのまま表現する”クールベの作品は評価されるはタイミングが悪かったようです。

 

彼に大きな転機が訪れたのは1849年のサロンのことです。

 

ギュスターヴ・クールベ作「オルナンの食休み」1849年

 

自分の村の何気ない風景をモデルとした“オルナンの食休み”をサロンへ出品したところ、ドラクロワアングルらから絵のテーマや画力において高い評価を得ました。

 

1848年当時、労働者が王政を終わらせるまでに発展した2月革命がありました。(別名:労働者革命

 

労働者は国家発展において大きな功績があるという風潮が市民の中で流行り、この“オルナンの食休み”労働者の憩いの時を表現するものとして注目を浴びたのです。

 

また、ロマン派のドラクロワ新古典派のアングル、ライバル関係ともいえる二人の巨匠に評価されたこともあり、この絵は国家買い上げになり、クールベは大出世を果たします。

 

一度絵が国家買い上げになると、それ以降サロンは審査はなしで出品できる特権が与えられます。

 

こうなったクールベはその2年後にある大作を仕上げます。

 

 

問題作「オルナンの埋葬」

1851年、ある大きな作品がサロンに出品されたことで話題になります。

 

クールべが描いた“オルナンの埋葬”です。

 

ギュスターヴ・クールベ作「オルナンの埋葬」1849~1850年

 

作品は縦3.15メートル、横6.68メートルにも及ぶとても大きな絵です。

 

この大作が出品された際、賞賛の声よりも画家からの避難の声の方が上がりました。

 

理由は大きく3つ。

 

1つ目は“社会情勢の変化”、2つ目は“絵のテーマ”、3つ目は“絵の表現”です。

 

・社会情勢の変化

ピエール=ポール・アモン作「ナポレオン3世」1850年

 

1852年にナポレオン三世が皇帝の座に就くことが濃厚となったこともあり、保守派が勢いを巻き返します。

 

再びフランスに帝政の色が見えはじめたこともあり、人民を主体とする絵への評価が変わっていきました。

 

クールべの姿勢はあいも変わらず、人民の姿を描き続けていました。

 

・絵のテーマ

大きさという点では他にも同様かそれ以上のサイズの作品はいくつもありますが、この絵は絵画の中でもある意味特殊でした。

 

それまで巨大な絵といえば、神話や宗教、歴史画が主なテーマでした。

 

一方クールべが描いたのは、農民や労働者の今を主題とした絵でした。

 

大きさにテーマがふさわしくないと批判されたクールべですが、今を描くことは将来の歴史画となると主張します。

 

この絵の正式には“オルナンの埋葬に関する歴史画”というタイトルがつけられています。

 

まるで自分の主張を裏付けるかのようなタイトルですね。

 

このような態度が批評家達から怒りの買い、問題作と言われる所以になりました。

 

・絵の表現

神の肉体を美しく描く、女神の容姿を端麗に描く……。

 

当時、テーマ内の登場人物に人を惹きつけるような美しさがあるかというのも評価の対象でした。

 

一方クールベが描いた絵はどうでしょう。

 

教会関係者はまるで酔っ払ったかのように頬が染められ、老婆の顔もシワが濃く描かれています。

 

「美的センスも神秘性もない絵を誰が見るのか!」

 

との批判にクールベはこう返します。

 

「誰も見たことのない天使をどうやって描くのか。」

 

彼はあくまでも見たものを描くという写実主張的な思想を貫きました。

 

それまでのサロンの在り方を真っ向から否定したような彼の主張は、逆に見る人の興味をそそったとも言われています。

 

 

【クールベ作品展 入場料1フラン】

1855年、世界で2度目となる万国博覧会が開催されました。

 

クールベもこの博覧会にオルナンの埋葬と画家のアトリエを含む複数の作品を出品しようとします。

 

彼の作品の評価は高く、博覧会の審査を難なく突破のものの上記の2作品だけは落選という結果に。

 

大作が審査を通らなかったことに憤った彼は、全作品の出品を取りやめます。

 

クールベは後援者の出資を得て個人的な作品展を開くことに。

 

クールべの個展会場

 

開いた場所はなんと博覧会場のすぐとなり。

 

【ギュスターヴ・クールベ作品展 入場料1フラン】という看板が立てられた小屋には、所狭しと彼の作品が飾られていました。

 

これが史上初の個展と言われています。

 

 

パリ・コミューンとクールベ

1871年プロイセンがフランスを制することになる普仏戦争の後、パリでは労働者を中心とした政権パリコミューンが樹立します。

 

世界初となる労働者政権ですが、その思想に大きく影響を与えたのはクールべでした。

 

他人の評価よりも自分の表現を重視し続けた彼は、文化人や軍人に与えられるフランス最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章でさえも無意味であると授与を辞退。

 

更には反政府的な社説を新聞に掲載したことや、彼が労働者や人民を絵の主題として名を挙げたことから、パリの市民たちはクールべへの憧れを強く抱くことになりました。

 

その決定的な証拠とされるのが、ヴァンドーム広場の塔の破壊運動です。

 

 

広場の塔はナポレオン一世の時代に、戦勝の記念として建てられた塔です。

 

クールべはあるとき新聞に、塔を取り壊すべきだという旨の社説を書いたことがありました。

 

これに共鳴した市民はなんと、塔に縄をかけて取り壊してしまったのです。

 

 

 

クールべの最期

これらを主導する労働政権はおよそ2ヶ月で消滅することになりますが、一連の活動のきっかけはクールべにあるという新政府の裁量によってクールべは投獄されてしまいます。

 

1873年にはクールベに対する塔の賠償責任が課せられることになります。

 

クールべはスイスに亡命しますが、クールベの作品は競売へ。

 

残った賠償金の通達は国境を超えて彼の元に届きます。

 

額は323,091フラン68サンチーム。

 

現在の日本円でおよそ4億6千万円の支払い義務が課せられます。(分割で。)

 

最初の督促は1877年12月31日です。

 

いくらスイスに亡命したとはいえ、政府からの賠償に対しては逃れることはできません。

 

彼はそんな中でも絵を描くことをやめませんでしたが、長年の病気と飲酒がたたり筆を持つことも難しい状況だったと言われています。

 

公判中には母が他界、亡命中に故郷から妹の死の知らせがくるも、政治的な関係から死に目に会えないなど、彼にとって辛い出来事が重なります。

  

そして訪れる賠償金の支払い日の12月32日。

 

この日クールベはこの世を去りました。

 

自殺ではなく病気の悪化や心身衰弱によるものだと言われています。

 

彼の運命すらも最後の最後まで権威に対して反抗していたということでしょうか。

 

高慢でありながら何よりも優雅で我が道を生きた画家の一生でした。

 

 

最後に

自信家とは彼のことを言うのかもしれませんね。

 

そんな側面の一方で、祖父が革命の中で王政と戦ったこともあり、“国の主役は人民”という意識が根本的に芽生えていたのかもしれませんね。

 

しかしそんな彼は時代や権威に翻弄されながらも、自分の表現したいものをし続けました。

 

彼の生き方は写実主義を確立しただけでなく、印象派(モネ、ルノワールなど)やキュビズム(ピカソ、ブラックなど)に大きな影響を与えました。

 

彼の晩年はとても華々しいとは言えませんが、彼のような自己中心的な生き方は、貫き通せば立派な武器になるということも一つ学びになりました。

 

 

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