歴史

野口清作、“英世”の名を授かる~野口英世⑥~

歴史

の続き…。

 

医学研究の道を目指す

20歳で医師免許を取得した清作。

  

地元に戻って医師として開業する手もありましたが、開業資金が無いことと左手を患者に見られたくない思いがあり臨床医を断念。

 

代わりに基礎医学研究者を目指します。

 

  

順天堂医院の助手へ

研究職の足掛かりとして、順天堂医院(現順天堂大学医学部)の助手として働き始めます。

  

助手と言っても、医事研究雑誌の編集という研究職から離れた仕事でした。

 

一年間医学誌の翻訳や編集を続けた後、順天堂医院長の紹介という形で、伝染病研究所に勤めることになります。

 

  

北里柴三郎の研究所にて…

清作が務める伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)は、血清療法で世界に名を馳せた北里柴三郎が所長を務めていました。

  

更には赤痢菌を発見した志賀潔も所属しており、医学研究の最先端を学べる場所でした。

北里柴三郎
北里柴三郎

しかし、ここまで来てもまだ清作は研究に携わることができません。

 

研究者の助手として、翻訳や外国人来訪者の通訳を任されることになります。

  

「数年したら留学できる。今は周りの研究者を見て学ぶべし。」との北里柴三郎所長の言葉もあり、その通り助手としての務めを果たすのでした。

 

  

急遽福島に帰郷する

そんなある日です。

  

恩人である小林栄先生の奥さんが病に倒れたとの報告が入ります。

  

助手として働き始めた清作は、「今研究所の仕事を休むとなると、次来た時に自分の居場所はないだろう」と考えました。

 

しかし小林家の一難に、欠勤届けを出し帰郷するのでした。

 

  

清作、英世になる

小林先生の奥さんは峠を越え、容体も良くなっていきました。

  

清作が帰郷し2週間が過ぎた頃でした。

  

流石に研究所に帰らねばと考え、東京に行く準備をしながら小林先生にある相談をします。

  

当時の流行り本“当世書生気質”の登場人物が自分にそっくりだったのです。

当世書生気質
当世書生気質

この本に野々口精作という人物が出てきます。

 

この人物は将来を有望視されながらも酒や女に溺れ、次第に自堕落になっていく様子が書かれています。

  

確かに野口清作にもそのような自堕落な面があり、更に名前もほとんど一緒だったため不吉であると考えました。

  

そこで小林栄先生は、自分家に伝わる“英”の字を取り、「英世」と言う名を清作に与えました。

  

こうして、野口清作は野口英世と呼ばれるようになったのです。

  

続く…。

  

  

豆知識

名を英世に改める清作ですが、当時改名することは簡単なことではありませんでした。

  

そこで清作は、別の集落にいる“清作”と言う名の人物を探し出します。

  

その後、自分の家の近くに住む別の野口家に婿養子に入ってもらうよう頼み込みます。

 

こうすると、同じ集落に野口清作が二人いることになり、これでは法的手続き上紛らわしいと主張。

 

このようにして正式に野口英世に改名したのです。

  

(頭が回るというか、ずる賢いというか…夜を生きるたくましさが感じられますね。)

 

続く…。

次回「フレクスナー博士との出会い」

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