【前回記事】
ウォレスからの手紙
フォークランドオオカミ、フィンチ、ガラパゴスゾウガメ、フィンチ、それに伴う地質学……。
これまで出会ってきた天然の研究材料と天才的な洞察力そして、信頼のおける研究者たちのアドバイスによって、彼は歴史的な大著の執筆にとりかかります。
最愛の娘の死を経て、彼はついに進化論からなる自らの生物観を世に公表することを決意したのです。
1858年6月、アルフレッド・ウォレスからダーウィンの家に手紙が届きます。
ウォレスはイギリスの博物学者で、ダーウィン同様に生物の採集や島の探検を通して生物の真理を追求しよう奔走していました。
この頃のウォレスは、インドネシアの小島テルテナに滞在していました。
生物の研究のかたわら、標本ハンターとして熱帯の昆虫や鳥などの生物を捕まえては博物館やコレクターに送って生計を立ていました。
ウォレスにとってダーウィンは、ビーグル号に乗って世界を旅した科学者として憧れの存在でした。
そんなウォレスから送られてきた手紙には、ある論文が同封されていました。
論文の内容は、彼が独自に構築した“生物の進化”についての理論でした。
・種が徐々に枝分かれしていくこと
・マルサスの人口論から自然淘汰を思いついたこと
・一つの種が地域の特性など外的要因で少しずつ変化していくこと
……
そこには、ダーウィンが20年の構想と長旅の末に考え出した“進化論”と一致する内容が記されていたのです。
ウォレスは自分の理論が正しいか測りかねていたため、一度ダーウィンに内容を確かめてもらおうとしていたのです。
また、「内容が正しい場合はライエルに取り継いでもらい、発表の場を整えて欲しい」という旨の文言が添えてありました。
当然のことながらダーウィンの内心は穏やかではありませんでした。
論文の発表が一番目であることと二番目であることとでは、科学者としての扱いに雲泥の差があったからです。
そこでダーウィンは、このことをライエルに相談しました。
ライエルは「それ見たことか」とダーウィンのエッセイの執筆の遅さを指摘しました。
というのも、ライエルは以前ウォレスが発表していた論文に進化論を匂わせる記述があることを認識していたことから、「早くしないと先を越をされるぞ」とダーウィンによる大著の完成を急かしていたのです。
結局は、研究仲間のフッカーの計らいによって、ロンドンのリンネ学会の場での共同発表ということで落ち着くこととなりました。
このときダーウィンのエッセイが引用という形で読み上げられたことが、“自然淘汰説”が初めて世に公表された瞬間だったのです。
進化論のダイジェスト
共同発表という形で自身の説を世に知らしめたウォレスでしたが、ライエルらの段取りに感謝の意を示すだけでなく、雲の上の存在だったダーウィンと同じ理論を発表できることを喜んでさえいました。
ダーウィンもこの反応にはホッとしたことでしょう。
彼は東南アジアから帰国後の仕事のないウォレスに対して、生活費を工面するなどサポートを惜しみませんでした。
二人は、議論を交わす中で意見が噛み合わないこともありましたが、それぞれの批判が互いの論理に気づきを与えるなど、切磋琢磨しながら友情を深めていきました。
理論が世界に公表されるに伴い、当時の識者たちからは「新しい部分は全て誤りで、正しい部分は全て古い」との批判が現われるようになってきました。
しかし中には、その論理の正しさに気づいた者もおり、先進的な博学者がダーウィンの大著に代わる論文を発表することも懸念されるようになりました。
この頃ダーウィンが著している生物の進化の論文はおよそ半分ほど仕上がっていましたが、その道の第一人者として認識されるためには、誰よりも早く理論を発表する必要がありました。
推敲に推敲を重ねる完璧主義者の彼が“完璧な論文”を完成させるには、さらに膨大な時間がかかります。
とはいえ、それを待っていたら誰かに先を越される可能性もあります。
完成を急かすライエルらの助言もあり、ダーウィンは自らの大作を要約しダイジェストにして発表することを決めます。
1859年、こうして出来上がったのがかの有名な『種の起源』です。
世界を旅した博学者として、あるいは地殻の変動を理論立てたサンゴ研究家として、またあるいは神の論理に盾突く聖職者崩れとして……。
かねてから注目の的だった彼の著作は、初版1250部が瞬く間に完売。
その後1872年までの間に、第六版まで増版される程の人気となるのです。
次回、『主の起源』に触れながら、ダーウィンの進化論についてまとめていきます。
コメント