この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝」から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。
本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。
記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。
今回のテーマは「徳川慶喜」です。
鳥羽・伏見の戦いから勝手に逃げた弱腰将軍
徳川慶喜といえば、1867年の“大政奉還”によって、朝廷に政権を返上することになった徳川幕府最後の将軍という印象が真っ先にくる方も多いかと思います。
翌年の1868年に勃発した旧幕府軍VS明治新政府軍との戦い(鳥羽・伏見の戦い)では、総大将でありながらも、形勢が不利と見るや勝手に大阪城から江戸城に撤退した卑怯者という汚名を着せられています。
では実際の徳川慶喜はどのような人物だったのか……、本書をヒントにまとめていきます。
将軍になることを望んでいなかった
実はこの徳川慶喜、もともと将軍になんてなろうとはかんがえていませんでした。
父徳川斉昭への手紙には、「天下をとったあとに失敗するくらいなら、天下を初めから取らないほうがはるかによい」と消極的な言葉を残しています。
しかし慶喜の父は、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のうちの水戸藩の第9代藩主です。
さらに母は、霊元天皇の曾孫で、血筋が良いうえに、慶喜は聡明で美男子でした。
生まれが整いすぎていたことから、周囲の期待はどんどんふくらんでいきます。
そんな慶喜が将軍になるのを嫌がった理由は、内政の混乱に加え、外国勢力による圧力があったからです。
ペリーの黒船が来航して以来、 諸外国から開国のプレッシャーをかけられていたうえ、幕府の財政危機も深刻でした。
そんな背景から慶喜は、窮地に立たされていた幕府を一挙にまとめ上げる若きリーダーとして過剰な期待を持たれていたのです。
して慶喜が期待されたわけだが、本人からすれば「火中の栗を拾う」こと以外のなにもの でもない、食乏くじを引きたくはなかったのだ。
井伊直弼が大老だった時代、第13代将軍の家定が亡くなった際の後つぎとして慶喜を推す声が上がっていました。
ここで直弼は血筋を重視し、徳川家茂を将軍に推薦します。
慶喜は、次の将軍が自分ではないと分かったときには心底うれしかったらしく、「血筋からいっても、家茂の振る舞いからいってもそれが妥当だ」と微笑んだそうです。
しかし、徳川家茂は討幕運動を抑えるために第二次長州征伐に向かう途中、大坂城で病に倒れ21歳の若さで他界してしまいます。
これによって将軍候補の一人だった慶喜にその役目が回ってきたのです。
はじめは「自分はふさわしくない」と食いついていたようですが、周囲から「どうしても!」という声に押され、渋々将軍職を引き受けました。
慶喜による幕政
一見やる気がなさそうに見える慶喜でしたが、将軍を引き受けてからはその手腕を遺憾無く発揮しています。
駐日フランス公使だったロッシュの助言を受けながら、それまでの軍事組織を解体して洋式銃隊に再編成したり、仏・英による陸・海軍伝習の実施、官僚制の合理化など大胆な幕政改革(慶應の改革)を進めていきました。
その様子は、桂小五郎(後の木戸孝允)曰わく、「まるで家康の再来を見ているかのようだ」と言わしめるほどでした。
小五郎以外にも、公家の岩倉具視は慶喜を政敵として一目おいており、薩長同盟の立役者である坂本龍馬も「一筋縄ではいかぬ存在」と評しています。
慶喜の特筆すべきは、欧米諸国の代表者との話あいの末に開国を進めたことです。
「世界のあらゆる国が、いつの時代も変わらない人の道として、お互いに親しく交流している今、 我が国だけが古くさい鎖国の習慣を守るべきではない」と、世界情勢の変化に喰らいついていこうと考えていたのです。
それまで慶喜は、外国を毛嫌いする孝明天皇や、父が貫いていた攘夷思想を大切にし、表立って開国には動かずにいました。
しかし、すでに父が亡くなり、将軍になって間もなく孝明天皇が崩御した今、誰に遠慮することなく開国へ動き、4カ国の公使に兵庫の開港を確約したのです。
幕府を守る反撃の一手だった
開国派として頭角を現していった慶喜ですが、将軍に就任してからわずか1年で朝廷に政権に返してしまいます。
かの有名な“大政奉還”です。
一見、政権を投げ出したかに見える行為ですが、実は幕府を守る攻めの一手でした。
この頃、討幕派はいよいよ武力による内戦で江戸幕府を倒そうとしていました。
慶喜はその気配を敏感に察知し、政権を朝廷に返すことで幕府への“攻撃理由を無くしてしまおう”と考えたのです。
これを聞いても逃げに聞こえますが、慶喜はそうは考えていませんでした。
いきなり朝廷(討幕側)に政権が返されても、運営を成り立たせることはできません。
さらに、広大な領地は徳川家が持ったままであり、幕府なしで政治は立ち行かない状況でした。
慶喜は、大政奉還によって討幕派の動きを防ぎつつ、実質的な幕府の影響力を保とうとしたのです。
王政復古の大号令
慶喜の大胆な行動に対し討幕派は苦戦させられながらも、「天皇の中心の新政府を樹立する」という旨の宣言“王政復古の大号令”を出しました。
これに対して慶喜も負けてはいません。
大阪に拠点を移した慶喜は、大坂城でイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロイセンなどと外交を行い諸外国との関係を強化。
自らが君主であることを諸国にアピールし、独自に新しい政治体制づくりに動き始めていたのです。
ところが、ここで思わぬ横槍が入ります。
武力衝突を起こしたい薩摩藩の挑発に乗った幕府の強硬派が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしてしまうのです。
これをきっかけに内戦が避けられなくなりました。
1868年、政権の主導権をめぐって新政府軍と旧幕府軍が激突。
鳥羽・伏見の戦いが勃発したのです。
内戦を避けながら政権奪還を目指した慶喜にとっては最悪の出来事でした。
慶喜はここで総大将として陣頭指揮をとることも可能でしたが、そうなると日本最大級の内戦になることは間違いなかったでしょう。
そこで慶喜がとった行動は、戦火が燃え広がらないうちに大坂城を脱出。
船で江戸に逃亡することでした。
この敵前逃亡と大政奉還の印象が強く、“ひどく無責任な君主”と解釈されることになります。
ただ、見方によっては日本を救ったファインプレーとも言えます。
外交能力に長け、開国派だった慶喜は、各国との関係を築きながらも欧米諸国が日本の権益を狙っていることも感じていました。
当時、国民主義が色濃い欧米諸国にとって、日本の内戦はまたとないチャンスです。
ここで一手間違えていたら、日本も他のアジア諸国のように植民地になってしまっていた可能性は低くありませんでした。
また、内戦が終結した日本はその後、本格的に朝鮮や満州などアジアに目を向けるようになっていきます。
そう考えると慶喜がとった行動は、小さい視点で見ると戦いから逃げた臆病者。
大きな視点で見ると戦争をいち早く終わらせたキレ者と言えるのです。
嫌々ながら将軍になったものの、その采配は見事なものだったようです。
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