前回記事
この記事では、ジャン・ジャック・ルソーが著した“エミール”から、子育てや生活に役立つような言葉を抜粋して紹介していきます。
“子どもは子どもの教育が必要である”と述べたルソーの考えを、1記事に3つずつまとめていきます。
また、それらの言葉がこの本の要約にもなるようにまとめていきます!
今回で“エミール”は最終回!
……にしようと思ったのですが、本来抜かそうと思っていた社会契約論の部分をまとめ始めたら、止まらなくなってしまいました。
エミールが最後に何を学んだのかのエッセンスにもなるので、その部分についてもまとめていこうと思います!
前回、ソフィーと別れたエミールは、ルソーと共に旅に出ます。
様々な国を渡り歩く中で、政府や国民について見識を広げていきます。
そんな中でルソーは、民の集合体について、契約に基づく大きな意志であることに気づいていきます。
そのことから、“ルソーが考える国家や市民ついての考えをまとめている”といった内容になっています。
エミールは、国々を渡り歩きながら、ソフィーの夫となるために、大人としての見識を広げるために、民として生きるための知識をつけます。
その根幹は、ルソーの“社会契約論”からくるものでした。
では、作中でどのように述べられているのか……。
ストーリーを引用&要約しながらまとめていきます。
旅の目的
エミールは言うだろう。
「どこか世界の片隅にある少しばかりの畑、それが私の求めている財産の全てだ。
私はそれを有利に使うことに私の欲の全てを向け落ち着いて暮らすことにしよう。
ソフィーと私の畑、それで私は財産家になれる。」と。
そうだ、友よ、妻と、自分のものになっている畑、賢者の幸福は、それで十分なのだ。
しかし、その二つの宝物は、人目に立つものでもないにしても、あなたが考えているほどありふれたものでもない。
ごく稀にしか見当たらない宝が、あなたによって発見された。
どんなところへ行けば容易に金持ちになれるかはよく分かっているが、どんなところへ行けば金持ちにならなくて済ませられるのか、誰が知っていよう。
どこへ行けば独立して自由に生きられるのか、誰に害を加える必要もなく、被害を受ける心配もなしにいられるのか、誰が知っていよう。
いつも誠実な人間でいられる国が、そんなにやすやすと見つかると、あなたは思っているのか。
策略もせず、争いもせず、束縛されずに生きていける政党で確実な方法が何かあるとするなら、それは確かに自分の土地を耕し、自分の手で働いて生きることだ。
だが「私が踏んでいる土地は、私のものだ。」と呟くことができる国がどこにあるのか。
そういう恵まれた土地を選ぶ前に、あなたが求めている安らかな生活がそこで見つかるかどうか十分に確かめることだ。
乱暴な政府や、迫害を加える宗教や、背徳的な習俗があなたを不安に陥れることがならないように気をつけるがいい。
あなたの苦労の結果を貪り食う過酷な税金、あなたの資産をすり減らしていく、きりのない訴訟を避けるがいい。
私はあなた(エミール)にこう提案したい。
私達が決めた二年間の旅を、私が今話したようなあらゆる危険を免れて、あなたが家族と共に幸福に暮らせる安住の地を、ヨーロッパのどこかに探すことに捧げようではないか。
私はこの提案が、私たちをどこまで導いていくかを読者の全てが分かってくれるかどうかは知らない。
しかし、私はこういう目的で始められ続けられる旅から帰ってくるとき、エミールが統治の問題、統治者の行動、彼らのいろんな確率の全てに精通して帰ってくることにならないとしたら、彼は知性を、あるいは私が判断力を全く欠いていると言わなければならないということ読者はよく知っている。
「彼に必要なただ一つのことは、最善の政府を見つけることだ。」
国家、政府、存在するものは十分によく判断するためには存在すべきものを知らなければならない。
これらの重要な問題を解明しようとする時に感じる最も大きな困難は、個人にそれらを検討する興味を起こさせなければならないことだ。
「私たちになんの関わりがあるのか」、「そこで私に何ができるのか」という二つの疑問に答えることだ。
私達はエミールを、どちらの疑問にも答えられる状態においてやった。
第二の困難は、子供時代からの偏見や、それにしたがって人々が育てられてきた確率から、特に、自分がほとんど関心を持たない心理について絶えず語りながら、自分の利害のことばかり考えている著作家の不公平から生じてくる。
実際、人民は教授の椅子も、恩給も、アカデミー会員の席も与えはしない。
人民の権利がどうして、ああいう連中によって確立されることになるか考えてみるがいい。
私はこの困難もまた、エミールにとっては全然存在しないことになるようにしてきた。
彼は政府とはどういうものなのか、ほとんど知らない。
彼に必要なただ一つのことは、最善の政府を見つけることだ。
彼の目的は書物を書くことではない、いつか書物を書くとしても、それは権力者に取り入るためではなく、人類の権利を確立するためにだろう。
さらに第三の困難、私はそれを解決したいとも提起したいとも考えていない。
それが私の熱意を怯えさせることにならなければ、それでいい。
こういう種類の研究においては、正義に対する心からの愛と真理に対する本当の尊敬に比べれば、優れた才能など、それほど必要ではないことを十分に確信しているからだ。
そこで、統治についての問題が公正に論じられるとするなら私の考えでは今こそまたとない機会だと考える。
それを観察していこう。
その前に観察の基準となるものを作らなければならい。
一つの物差しを作って、測定するものをそれと比べてみなければならない。
私達の国制法原理がその物差しだ。
そして私達がそして私達が測定するのは、各国の国制法だ。
「奴隷は奴隷である。」
まず、自然状態に遡って、私達はこういうことを調べてみよう。
人間は奴隷として生まれるのか、それとも、自由な者として生まれるのか、結社の一員として生まれるのか、それとも他人からの束縛を受けない独立したものとして生まれるのか。
人間は自分の意思によって結集するのか、それとも、力に強制されて結集するのか。
人間を結集させた力は一つの恒久的な権利となり、この権利によって、その最初の力は、他の力によって打ち勝たれた場合にも、人に義務を課することになるのか。
次に、こういうことも調べてみよう。
人は、街道で財布を要求する強盗に、財布を隠しておける場合にも、とにかく強盗が持っているピストルもまた、権力なのだからと考えて、良心的に財布を渡す義務があるのか。
この場合、権力という言葉は、正当な権力、したがって、その存在の根拠となる法に従っている権力とは別のものを意味するのか。
さらに奴隷制度に移って、こういうことを調べてみよう。
人間が、何の制限も、保留もせずに、どんな種類の条件もなしに、他の人間に自分を譲りわたすのは正当なことであり得るのか。
仮に、奴隷制度に何らかの保留、何らかの制限があるとするなら、こういうことを検討してみよう。
この場合には、その精度はまさしく一つの契約なのであって、この契約において二人に上下はない。
契約をする場合には、どちらも自由人なのであり、権利を侵害されたと考えればすぐに、自由にその契約を破棄することもできるのではないか。
しかし、実際はそんなことはない。
奴隷は奴隷である。
こうして振り出しに戻らなければならなくなった、私たちは、人民という言葉の意味を考える。
人民を作るためには、私達が仮定している契約に先立って、暗黙の契約にせよ一つの契約が必要なのではないかということを研究することになる。
・社会契約
王を選ぶ前に、人民はすでに人民なのだが、社会契約の他に何が人民を人民にしたのか。
社会契約はあらゆる市民社会の基礎になっているのだ。
そこで、この契約の本質のうちにこそ、それが作り出す社会の本質を探究しなければならない。
私たちはその契約の内容がどんなものか、それはほぼ次のような、公式で言い表せるのではないか、研究してみることになる。
「私たちは皆共同に、自分の財産、人格、生命、そして自分の力の一切を、一般意志の最高指揮に委ねる。」
「そして、みんなで一緒に、全体の分割できない一部としての各自の部分を受け取る。」
こう仮定した場合、1種の集合体が生まれる。
この集合体は一般に、「政治体」という名称を帯びる。
政治体が受動的である時には構成員から「国家」と呼ばれる。
能動的な場合は「主権者」と呼ばれる。
それを同類のものと比べる時には「国」と呼ばれる。
主権に服従する者としては「臣民」と呼ばれる。
私たちはこの結社行為が公共と個人との一つの総合的な約束を含んでいる。
社会契約は特別な性質の契約で、それだけに適したものである。
というのは、人民は自分自身とだけ契約しているからだ。
つまり、主権者としての人民全体が臣民としての個人と契約しているのだ。
この条件が政治機構の一切の仕組みと動きをもたらすのだ。
こういうことがなければ、不条理で、圧政的で、恐るべき乱用に陥る恐れがある約束を、政党で、道理にかなった、何の危険も伴わないことにしているのだ。
個人は主権者にだけ、従属したのだし、主権は一般意志にほかならないのだから、各人は主権者に服従しながら、自分自身に服従しているに過ぎないこと、人は社会契約によって自然状態にあるときよりもいっそう自由になることがわかってくる。
・一般意志
一般紙の他には何も臣民に義務を合わせることはないのだが一般意志はどんな風に表明されるのか。
どんな印によって確実に一般へ一認められるのか。
法とは何か、法の性格はどういうことか、それを研究することにしよう。
人民がその構成員のひとり、あるいは幾人かを特別扱いすると、人民はたちまち分裂する。
このような、ある部分を除いた全体は全体ではない。
そういう関係が続いているかぎり、全体はなくなり、ふさわしくない二つの部分があることになる。
反対に、全人民が全人民のことを規定する場合には、人民は全体のことだけを考えている。
だから、どこかで特定の関係が作られるとしても、それはある観点から見た全体的なものと、別の観点から見た全体的なものとの関係であって、分裂が起こらない
この場合には、規定されることは一般的なことで、規定する意思も一般的な意思だ。
主権の本質は一般意志にあるが、ある個別意志はいつも一般意思に一致するか確かられるわけではない。
私的な関心はいつも偏った好みに向かう。
対して、公共の関心は平等を目指す。
個別意志の一般意志に対する関係、習俗の法律に対する関係が薄くなれば、それだけ抑圧する力は大きくならなければならない。
他方において、国家が大きくなれば、公共の権力を委託されているものは、その権力を濫用するいっそう多くの誘惑と手段にさいなまれる。
政府が人民を抑制する力をいっそう多く持つことになれば、主権者の方でも政府を抑制する力をいっそう多く持たなければならない。
この二重の関係から、主権者統治者、人民の繋がりはいい加減な観念ではなく、国家の本質の一つの帰結であることになる。
また、政府はただ一つだけの絶対的な構成方式があるのではなく、同じ程度の性格の異なる政府があるべきだという結論を引き出すことができる。
まとめ
ここまでがエミールから読み取れる社会契約論です。
主権は人民にある、ということを謳った社会契約論。
個人が社会に属することで、人々は自由で平等な契約を互いに結ぶことができると考えたのですね。
政治的自由を得たことで、共同体のための自由と安全(一般意志)を追求することができると主張しています。
普通、共同体の利益のためには利己的な意見は通らないとされていますが、ルソーは自分の都合はしっかり伝えるべきだとも言っています。
各人の都合も組み入れながら、法を作り、法の中で自由が生まれる。
それらは全て、社会契約を維持するための柱としての意味も持ちます。
これらの考えは、現代での民主主義や国民主権の根幹でもあります。
“自由を抑圧しない権力”とは何なのか……、そんなことが社会契約論で研究されています。
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