前回記事にて人間の行動には格率(信念)があること、そして格率は、学習を重ねることで道徳法則と一致することをお伝えしました。
かつて信仰と共に信じられてきた天動説が正しい知識の蓄積によって地動説に変わっていったように、
人間が勉強や学習によって知識や能力を積み重ねれば、自然法則についての真実が見えてくる…。
そしてその学習の過程で自分が持っている格率(信念)も深まり、道徳法則に近づくとカントは考えました。
そしてこの道徳法則が分かってくることを“自律”と呼びました。
今回の記事では実践理性におけるキーワードである“自律”について深掘っていきたいと思います。
自律=自由になること
汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるよう行為せよ。
カントは“自律とは、人が自由になること”だと考えていました。
ただし、やりたいことを好き勝手にやるという自由ではありません。
自律とは、“人間の実践理性が権威や欲望に左右されず、自分の格率(信念)に従って行動するようになること”だとカントは主張しました。
自ら道徳法則に従うこと、自らを律することを“自律”と呼びました。
(※道徳法則=無条件に行動する善=日々の意思決定の中で、善を実践しようとする心)
そして条件や欲望に負けず自律的に行動することこそ真の自由だと考えたのです。
自律した人間=人格
カントは自律した人間のことを人格と呼びました。
おこがましいことかもしれませんが、本能のままに生きる動物や虫とは違い、人間は道徳法則を打ち立て自律的に行動することができる唯一の生き物です。
本能的な自然界とは違い、自律した人格が集まれば理想の社会が実現できるとカントは考えました。
そしてこの理想の社会を“目的の王国”と呼んでいます。
目的の王国は実践理性の究極の姿であり、人間の正しい認識と取るべき行動なのだと結論付けています。
勉強しない人の段階の格率(信念)は、天動説を信じている状態のようなもので真実を学んでいません。
しかし学習を重ねていき物事を考えるようになれば、色んな法則が分かるようになり、地動説を理解しようとしている状態に近くなることができます。
自律するために行動することで、自分の信念の理想的な在り方も分かるようになり、その信念(格率)は道徳法則と一致する…。
カントはそう考えたのです。
自動販売機とコンビニ店員
汝すべての人の人間性を、決して単に手段としてのみ用いないように行動せよ。
カントは、
「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。」
という言葉を残しています。
人格を持った人間を人格者として扱い、お互いを尊重し合おうといった主旨の言葉です。
自動販売機とコンビニの店員を例にします。
自動販売機で何かを買ったとき、販売機に感謝を伝える人はいません。(…よね?)
これは自販機を物を買う単なる“手段”として認識しているからです。
対して何か物を買ったときに、人間が対応してくれた場合はどうでしょう。
機械的に対応されることがあるかもしれませんが、カントはこのような状態でも人間を販売機のような“単なる手段”として用いてはならないと言います。
会話や挨拶まではせずとも、少し頭を下げ感謝をするだけで相手を人格者と認めることになります。
こうすることで相手の人格を機械的な手段ではなく、尊厳を持った人間として扱うことになるのです。
人格を“目的として尊重し合う”ということは、自他ともに尊厳をもった価値として認めることなのです。
永遠平和のために
後にカントが著した“永遠平和のために”では、これらの人格を尊重し合う“目的の王国”を理想社会として、この考えを国際社会に当てはめました。
国も人格をもった目的として扱うべきだと主張したのです。
全ての国が民主主義的で軍隊を持つことを止め、国同士のルールが定まりそれを取り締まる機関ができれば、争いのない世界が作れると考えたのです。
この考えはその後発足する国際連盟、そして現在に至る国際連合が考える世界平和の根幹を担っているのです。
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