の続き…。
ドイツ連邦から議長国のオーストリアを除外することを明言したプロイセン。
1866年5月12日、遂にオーストリアがプロイセンに対し宣戦布告。
これに呼応する形でプロイセンがオーストリアに宣戦布告。
普墺戦争が勃発します。
とはいえ、オーストリアはまだまだ大国。
兵力も国力もプロイセンよりも大きく
プロイセンにとって、絶対に勝てると言える状況ではありませんでした。
この状況を打開すべくある男が動きます。
準備ができている男、モルトケ
兵士による突撃や現場主義が盛んであった当時の戦争に、作戦立案の重要性を主張したのがプロイセン陸軍参謀長のモルトケでした。
リスクを冒す前に、考慮すべき事柄を比較検討せよ。
という彼の言葉に表れるように、大国との戦争に勝つためには準備が大切であると考え、それを実際に行動できる人物でもありました。
人を褒めることがないビスマルクでさえ、モルトケに対しては「信頼できると男である」と口にしたそうです。
ではそんな準備ができる男が考えた作戦とは…?
~鉄道と電信と銃~
兵と物資の円滑な移動と情報コントロールだ。
モルトケはプロイセン国内の工業化を始めた頃から既に、大国との戦争を想定していました。
彼は戦争に向けて、大きく鉄道、電信、銃の三本柱で優位に立とうと準備していました。
・鉄道
それ故、大量の物資と人を運ぶことができる鉄道を、予め戦場になりそうな場所に張り巡らせていました。
・電信
また、戦場での情報伝達の重要性に気づいていたモルトケは、電信網を整備し他国を一線を画す情報コントロール能力を有していました。
・銃
さらに、先進的すぎて見向きもされなかったドライゼ銃に目をつけ、実践配備させていきました。
国力、兵力では敵わないオーストリアに対して、技術力と作戦で戦いを挑んでいったのです。
ケーニッヒグレーツの戦い
1866年7月、モルトケ率いるプロイセン軍は、ケーニッヒグレーツにて大勝利を収めます。
理由はモルトケの想定通り、武器の性能差と鉄道の活用にありました。
オーストリア軍はこれまで、ローレンツ前装式小銃という古式銃を採用していました。
このタイプの銃は立ちながら弾を込め、立ちながら撃つという方式で運用されていました。
ついでに戦術もフランスのナポレオン時代の使い古しでした。
対しプロイセン軍は、世界初のボルトアクション銃であるドライゼ銃を採用していました。(引き金の上斜め前にあるボルトを弾くことで弾の排莢ができる銃)
(ボルトアクション機構により、素早く弾込め→射撃→排莢までを行うことができる。)
ローレンツ式小銃の使用者(墺軍)は、的が大きくなり撃たれやすい“立ちながらの戦闘”を余儀なくされたのに対し、ドライゼ銃の使用者(普軍)は撃たれる的が小さい“伏せ撃ち”ができたのです。
射程ではオーストリア軍の方が上回っていましたが、プロイセン軍はオーストリア軍の5倍の速さで射撃を行うことができました。
そして戦地になりそうな場所の周辺に鉄道網を張り巡らせていたことにより、兵士の移動や弾薬、食料など物資の移動にかかる時間が大幅に短縮。
さらに電信網の発達により、迅速で正確な作戦の指示もできました。
戦況を判断して、三方向からの挟み撃ちもやってのけたそうです。
大国を退けたことによって兵士の士気も高い状態で戦ったことにより、あらゆる局面で勝利を収めていきました。
普墺戦争終結
ケーニッヒグレーツでの敗戦が決定打となり、プロイセン側の大勝利という形で普墺戦争は終結。
開戦から終結まで7週間という短期間での決着になりました。(これにちなんで7週間戦争とも呼ばれています。)
ビスマルクはプロイセンとの禍根を残さないために、領地の割譲はせず賠償金も極めて少額にとどめました。
ただ「ドイツ統一問題において、一切の口出しをしないこと」を条件に講和をしました。
こうしてビスマルク率いるプロイセン王国は、ドイツ統一への基盤を固めていったのです。
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