第百九段
高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、
木登りの名人と呼ばれる男が、弟子を高い木に登らせて枝をらせていたところ、
いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長ばかりに成りて、
危なそうなところでは何も言わず、軒先まで降りてきたとき、
「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、
「気をつけて降りてこい」と声をかけた
「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、
「これくらいならば、飛び降りることもできます。なぜそう言うのですか。」と聞いたところ、
「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
「それなのだ。目が回るほどに、危ない枝に立っている時は、言わずとも恐れを抱いて気をつける。事故は、安全なところに立った時にこそ起こるのだ。」
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。
身分が高い人物ではないが、まるで聖人の戒めのようだ。
鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。
鞠も、難しい玉を蹴り返した後、気が緩んだところで必ず落とすらしい。
安心しているときほど気をつけるべきという教訓ですね。
車の運転でも“慣れてきてからが要注意”とよく言われますね。
若年齢層に事故の比率が多いのも、慣れによって漫然とした運転が多くなっていることが原因とも考えられています。
事実、自分も免許を取得して1〜2年頃に事故を起こしていました。
運転したての頃の慣れは、技術の上達ではなくただ注意する気持ちが薄れていただけだと実感しました。
今では失敗を通して、最低限何に注意するべきかをわきまえて運転しているので、数年は事故の気配すらありません。
学んだ中での最大の事故防止法は、“無理そうなときは運転しない”ことです。
ある雪の日、急勾配の坂がアイスバーンで滑りやすくなっていたとき、坂を登りきれなかったことがありました。
登り切れないならまだしも、そのままずり落ちて坂の下の十字路まで戻されたときは死ぬかと思いました。
せめてもの救いは、十字路に車が走っていなかったこと……。
もし車が走っていたら事故は免れなかったでしょう。
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