の続き…。
ルーカス教授職に就いたニュートン。
世紀の発見に繋がる研究成果の執筆をはじめた彼ですが、ある時からぱったりと研究を止め、神学や錬金術の研究に没頭します。
そんな自然科学の世界から身を引いたかに思えた彼の前にある人物が現れます。
後にハレー彗星にその名を残すことになるエドモンド・ハレーです。
彼はある時、惑星の軌道計算に関する難問をニュートンに出題します。
ニュートンは複雑な軌道計算も難なく答えます。(と言うより、過去に似た計算をしていた。)
これに彼の研究心が刺激されたのか、その問題の証明を作って送ることを約束します。
その後のニュートンは再び自らの研究に向き合うようになっていくのです。
彼が41歳の頃の出来事でした。
プリンシピアの執筆
それからの彼は食事も忘れるほど研究に没頭していたそうです。
1年半もの間、学生時代の頃から打ち立てていた自らの理論の完成に情熱を注いだニュートン。
彼を知るものが言うにはその間彼が笑ったのは一度だけ、それも論争の相手がミスをした時だったといいます。
そして運命の1686年7月5日、遂にプリンシピア(自然哲学の数学的諸原理)を書き上げます。
プリンシピアの概要は、
・第一編では真空管中の物体の運動を…
・第二編では空気や液体など抵抗のある媒質の中での物体の運動を…
・第三編では地球上の質量をもつ物質のみならず惑星や彗星などの運動を…
それぞれ数学的に体系化してあります。
ニュートンの功績の一つは、世の中の法則が数学によって成り立たせることができることを証明したことにあります。
それまで「計算するくらいなら経験した方が早い」、「お金の勘定やものを数えるときに便利なツール」としか考えられていなかった数学。
ニュートンは地球のことだけでなく、宇宙の法則、はたまた地球と宇宙の間を繋ぐ法則までをも計算によって導き出しました。
物が落ちることを発見したシモン・ステヴィン、地動説を提唱したガリレオ・ガリレイ、天体の運動法則を発見したヨハネス・ケプラー…、それまでのあらゆる法則を体系化した書物がこのプリンシピアです。
現在でも車の走行、航空機の飛行、人工衛星の軌道、ロケットの発射角度…、あらゆるものの根本原理がプリンシピアにまとめられているというこの世の取り扱い説明書のようなものなのです。
この論文を見たハレーは、「興奮しすぎて命を落とさなかったのは幸運だった。」と感激したそうです。
VSロバート・フック
しかしこのプリンシピア、完成はしたものの世に広まるまでに時間がかかりました。
その理由の一つは、ロンドン王立協会が深刻な財政難に陥っていたからです。
当初はプリンシピアの出版に対して資金提供を行う予定でしたが、協会出版の別の書籍が全く売れなかったため、止む無く資金提供を取りやめたと言われています。
しかしここはエドモンド・ハレーの協力もあり、自費出版にてプリンシピアの刊行に漕ぎ着けます。
ここで更に問題が発生します。
出版に際しある人物が盗作の疑いをかけてきました。
王立協会会長ロバート・フックです。
かつて論文の監査も行い、世界の科学界トップの権力を持っていた彼がNOと言ったらNOになるのです。
彼はニュートンに、「そのアイデアは私が既に考えていたことだ。」と圧をかけてきました。
対してニュートンはそれを意に介さず、自分の成果として発表するという意志を曲げませんでした。
そんなやり取りの中で、ニュートンがフック宛に送った手紙の一文にこんな表現があります。
「If I have seen further it is by standing on ye shoulders of Giants.(私が遠くまで見渡せるのは、巨人の肩に立っているからです。)」
フランスの哲学者ベルナルドゥスの言葉を引用したものです。
今でも“巨人の肩”という先人の偉業を称える表現として使われていますね。
GiantではなくGiantsになっていることから、明らかにフック個人を巨人に見立てたものではないことが分かります。
「これは先人の功績をまとめたに過ぎず、決してあなたの功績ではありませんよ。」ということを間接的に訴えていたのかもしれませんね。
結局この論争は、出版のきっかけになったエドモンド・ハレーが仲裁に入ることで収まりました。
ハレーはニュートンにフックへの謝辞を書くようにアドバイスしましたが彼はこれを無視、フックが指摘した部分に注釈を入れるのみだったそうです。
二人の間の確執はかなり深かったことが分かりますね。
以上、ニュートンのプリンシピア出版までをまとめました。
世界を照らしたプリンシピアはあまりに難解なため、現代においてもスティーブン・ホーキングら天才たちによって解説書が出版されています。
当時は更に解読が困難だったこともあり、科学者たちに受け入れられるまでに時間がかかりました。
世界が本当にニュートンの恐ろしさを知るのは、ハレーがニュートンの法則を用いて、まだ見ぬ星の軌道を計算してからでした。
75.32年周期で地球に帰ってくる星を予言したハレー。
ハレーもニュートンもその星を見ることなくこの世を去ってしまいましたが、1758年12月25日予言通りとある彗星が地球に回帰してきました。
その彗星の名は現在研究者の名を冠しハレー彗星と呼ばれています。
そしてそのハレー彗星を観測した12月25日は、アイザック・ニュートンの誕生日でした。
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