の続き…。
黄熱病への切り札
1918年、野口は病原体を見つけるためにエクアドルのグアヤキルに派遣されます。
黄熱病は当時ロックフェラー財団が本腰を入れて取り組んでいたテーマでした。
黄熱病の病原体が発見されていないこともあり、媒介となっている蚊を駆除するくらいしか予防法がありませんでした。
パナマ運河の開通によって南米赤道付近への往来が増えることもあり、早急に解決しなければならない問題でもありました。
そこでロックフェラー研究所の切り札である野口英世に声がかかったのです。
黄熱病の病原体発見
エクアドルに到着した翌日から野口の研究が始まります。
黄熱病患者の血液と組織を採取し観察したところ、8日目には黄熱病の病原体らしき微生物を発見。
このニュースは瞬く間に世界に広がり、レプトラスピラ・イクテロイデス(黄疸)と名付けられたこの病気は、野口ワクチンによって鎮静化され多くの命を救います。
これらの功績から野口はノーベル賞候補に名を連ねるようになります。
黄熱病の研究は正しかったのか…?
ノーベル賞候補に名を連ねる程の研究となると、その研究を反証しようとする者も現れます。
反証は主に以下のようなもの
・黄熱病の症状はワイル病と酷似していること
・当時ワイル病の認識が無かったエクアドルが黄熱病とワイル病を勘違いした可能性があること
・野口のやり方でいくらやっても、病原体であるレプトラスピラ・イクテロイデスが発見できないこと
・アカゲザルではなくモルモットで研究をしたこと
・黄熱病の原因は細菌ではなくウィルスではないかということ
…
どれも野口の研究の穴を突く指摘でした。
特に最後の“細菌ではなくウィルス”説は、野口の研究成果である狂犬病や小児麻痺の病原体の発見などを根本から覆すことになってしまいます。
野口が在籍しているロックフェラー研究所の威信にも係わる大問題でした。
しばらくするとアフリカで黄熱病が流行り始めた事に際し、野口の研究を否定する論文が出回ります。
これによって野口はその論文や研究者の疑惑の目を払拭すべく、西アフリカに赴くことになるのです。
最後の研究
1928年、アフリカのガーナに到着した野口は初めに、当時高額であった研究用のアカゲザルを400匹注文します。
成果を出すまで帰らないというの野口の決意でした。
…しかし半年過ぎても病原体であるイクテロイデスを見つけることはできません。
野口は「もしや病原体は細菌ではなくウィルスなのではないか?」と考えるようになります。
細菌よりも遥かに小さなウィルスは、当時の顕微鏡では見つけることは不可能とされており、存在は認知しているものの誰も目にしたことが無い未知の領域でした。
「…どうにも僕には分からない。」
ウィルス説を肯定することは、今まで積み上げてきた研究を否定する事に他なりません。
それでも野口は「もしウィルスを見つけることができれば、今までの研究を全て超える程の大発見である」と考え方針を転換。
細菌説から、今まで自分が否定してきたウィルス説を検証し始めるのです。
濾過器にも顕微鏡にも映らないウィルス。
ならば見える大きさになるまで培養すれば良いと、夜も寝ずに培養の成功に漕ぎつけようとします。
研究所に帰るまであと半月に迫ったその時、研究による心身の衰弱と自身が黄熱病にかかってしまったことで倒れてしまいます。
数日は意識があったものの、黄熱病が重症化するにつれて容体も深刻に。
助手のヤングが声をかけた時、野口は「…どうにも僕には分からない。」と言葉を残し昏睡、間もなく亡くなりました。
彼が51歳のことでした。
…以上が、一農村の百姓から世界に名立たる研究者へと大躍進を遂げた一人の男の生き様です。
最後に
1931年に電子顕微鏡が発明されたことによって、黄熱病の原因がウィルスであることが分かりました。
また野口の研究の成果であった、狂犬病や小児麻痺(ポリオ)の原因もウィルスであったことが判明。
野口の研究の多くは現在否定されることになります。
しかし彼は東洋人で初めて米国に渡り世界に名を轟かせた人物であり、数多くの命を救った英雄でした。
囲炉裏の火傷から始まった彼の生き方は今でも科学者の模範であり、良い面も悪い面も後世に語り継がれ学ばれるべきものであると確信しています。
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