の続き…。
アメリカへの足掛かり?を掴む
名を“野口英世”に改めた清作。(以降野口に統一)
北里研究所に帰るとアメリカの視察団が研究所の視察をするための通訳兼案内役を頼まれます。
そこで彼はクモの糸のような渡米へのきっかけを掴みます。
ジョンズ・ホプキンス大学教授(後にペンシルベニア大学へ移動)のサイモン・フレクスナー博士との出会いです。
サイモン博士は野口に、「もしアメリカに来ることがあったら、私の研究所を訪ねなさい」と渡米留学の可能性を示唆。
野口はこの言葉を聞いた直後から、渡米して研究する意思を固めます。
検疫補佐官になる
研究所視察の前後、北里研究所の貸し出し用の蔵書が売られてしまう事件が起きます。
当時図書の係を務めていた野口は責任をとらされる形で図書係を解任。
その後、北里所長の計らいで横浜港検疫所の検疫官補になります。
海外から日本へ入ってくる船の検疫を任されますが、そこでも野口は活躍に機会を逃しませんでした。
検疫補佐官から国際防疫班へ
野口は横浜港に入港する船の中にペスト患者がいることを発見し診断します。
これらの活躍から清国でのペスト対策として要請のあった“国際防疫班”に選ばれることになります。
支度金として96円を支給されますが、野口は全て酒と女に使い果たしてしまいます。(この浪費癖は直りませんね…。)
見かねた血脇先生が渡航費を工面することで、何とか清国へ…。
1899年のことでした。
義和団事件により帰国
1900年になると“義和団事件”が発生。
(義和団事件=秘密結社“義和団”と清国皇帝の側妃“西太后”が結託し、他国を排除しようと宣戦布告をした出来事。その後清国はボコボコにされる。)
社会情勢が不安手になったことで、野口は一時日本に帰国します。
その後東京歯科医院の講師として働きますが、1900年の12月になるとペンシルベニア大学に向けて渡米することになります。
北里所長の紹介で、サイモン・フレクスナー博士を訪ねることになったからです。
ペンシルベニア大学で活躍
フレクスナー博士の助手として働き始める野口。
彼が取り組むことになった課題は、蛇毒と免疫学の研究でした。
お金に対する扱いは適当な野口でしたが、こと研究となると寝る間も惜しんでストイックに取り組みます。
働き始めて一年も経たない内に、250ページにわたる論文を書き上げます。
最初はぽっとで出の日本人が書き上げた論文であると見向きもされませんでしたが、フレクスナー博士との連名で発表したことで評価を得ます。
蛇毒研究の権威であるサイラス・ウィアー・ミッチェル博士の長年の研究を完成させたとして、ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスにて称えられました。
ロックフェラー医学研究所の一等助手なる
講演をするためにヨーロッパ各地を回った後、フレクスナー博士のロックフェラー医学研究所長に就任することになりました。
これに合わせて、野口もロックフェラー医学研究所に移籍することになります。
このロックフェラー研究所の移籍が、また彼の研究人生を大きく躍進させるものになっていくのです。
続く…。
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