歴史

【偉人の横顔④】老中として経済と文化を盛り上げようとした男〜田沼意次〜

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この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。

 

 

本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。

 

記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。

 

今回のテーマは「田沼意次」です。

ワイロを受け取る裏金政治家

田沼意次(1719~1788年)

 

老中“田沼意次 (1719~1788)”といえば、行き詰まった幕府の財政を立て直そうと積極財政を行なった人物として教科書でも紹介されています。

 

老中は江戸幕府の政務をまとめる最高職で、将軍に次ぐ権力者です。

 

老中の上に“大老”が置かれることがありますが、これは臨時な役職であり、常設の役 職としては老中が権力の中心でした。

 

彼が財政再建のために農業主義から重商主義に転換したことは、特定の商人の利益に結びつくことも多く、その結果“ワイロ政治”として市民から激しい批判を受けたということも印象的です。

 

そんな嫌われ者の意次ですが、近年では再評価の動きも見られています。

 

理由は、彼がの経済政策が江戸の経済の活性化につながり、文化や芸術が花ひらく土壌を作り上げたからです。

 

そんな幕府の権力者について以下にまとめていきます。

  

 

田沼が老中になるまで

田沼意次は享保四年(1719年)、紀州藩士から旗本になった田沼意行(たぬまおきゆき)の長男として生まれました。

 

意行は、8代将軍徳川吉宗によって幕臣へと取り立てられ、晩年には「小納戸頭取(こなんとうどり)」という将軍の世話係のリーダーも務めていました。

 

息子である意次が16歳になると、次期将軍候補である吉宗の子・徳川家重のもとで働くようになります。

 

出自も高い身分ではなかったため、活躍の場が少なかったのでしょう。

 

まだ目立った活躍はありませんが、堅実に実務をこなす意次は40歳のときに1万石の大名となっています。 

 

一月のうちおよそ20日は江戸城内に寝泊まりしたようで、江戸では激務をこなしていたようです。

 

家重が50歳で将軍を辞し、その位が息子の家治へと引き継がれると、意次はいよいよ幕府の政治に本格的に参加するようになります。

 

将軍を引退後の家重は、大御所として将軍の後ろで補佐をしていましたが間も無く死去。

 

家治への遺言として、「田沼意次を大事にするように」と伝えていたそうです。

 

派手な活躍をしていない意次でしたが、家重は彼の働きを評価していたことが分かります。

 

 

節約ではなく商業の活性化で経済復活

将軍となった家治は、父の遺言を守り、側近として田沼意次を登用しました。

 

実権を握った意次は、財政難だった幕府の懐事情をなんとかしようと最優先に考えました。

 

17世紀後半から18世紀の幕府は、長崎貿易における金銀の流出や、1707年の富士山噴火による復興支援、幕府直轄の鉱山の採掘量の減少など様々な理由を引きずり財政難となっていました。

 

1707年12月16日の宝永噴火を描いた絵図「夜ルの景気」出典:静岡県沼津市土屋博氏所蔵

 

同じく財政難だった8代将軍徳川吉宗(在職:1716年~1745年)時代は、幕府が率先して倹約を行うことで、庶民たちにも贅沢を禁止するよう呼びかけました。

 

新田開発や上げ米の制など税収増加の施策もあり、吉宗の晩年には年貢の徴収高が江戸時代を通じて最高値を記録するほどでした。

 

しかし、吉宗亡き後にも庶民には倹約が義務付けられ、さらに年貢の引き上げが求められた上に凶作が襲ったため、幕府への反発が強まってきました。

 

そういった反発の一つが以前紹介した郡上一揆であり、田沼意次はその騒乱の裁定関わっていました。

 

群上一揆の渦中、二日町の農民達が団結を誓って署名した傘連判状

 

こういった苦い経験から意次は、倹約と増税では内政が上手く働かないことを学びました。

 

また、吉宗時代から始まった新田開発は頭打ちになり、新たな農地をこさえることもままならないことも理解していたことから、商業によって経済全体を活性化させる必要があると考えました。

 

ここから意次の重商主義政策が始まります。

 

まず、幕府に税金を納めれば、商品を独占的に仕入れて、販売する特権を得られる“株仲間を積極的に公認。

 

この結果、市場に商品がどんどん流通していき、経済を活性化させることに成功しました。

 

しかし、これには弊害もありました。

 

経済を活性化させれば、海外との貿易も盛んになると同時に、貨幣(金や銀)の流通量が増えることになります。

 

そうなると、貿易によって金や銀が海外に流出する量も増えるということにもなります。

 

そこで意次は、当時生産量が増えていた銅や干しアワビ、いりこ、フカヒレといっ た海産物をつめた“俵物”を輸出品として準備します。

 

それらを貿易の拠点である長崎から輸出し、代金として金や銀を、オランダ・中国・チベット・ベトナムなどから獲得することに成功します。

 

目下の大問題だった貿易の赤字はまもなく黒字に転じ、金の需要も満たしていった意次は、ついに老中に就任します。

 

 

ワイロ政治

将軍に次ぐ最高権力者となった意次ですが、ここで問題となったのが、かの有名な“ワイロ政治”です。

 

商業に取り組めば利益が生まれると分かると、商人たちは幕府(田沼意次宛)に賄賂を贈るようになります。

 

これは株仲間に公認してもらうためのお願いやお礼としてのものがほとんどでした。

 

それほど商業に力を入れるあまりに、「田沼意次は農民をないがしろにしている!」という声が高まります。

 

実は意次が重商主義政策を行っていくなかで、農民たちの生活は苦しくなっていました。

 

田畑を捨てて都市部へ流れ込んでくる者が増えたことで農村が荒れはじめていたのです。

 

さらにこの時期、浅間山の噴火などの自然災害が発生したこともあり、各地の農村が凶作に見舞われてしまいます。

 

一揆や打ちこわしがあちこちで起こるようになったことで、意次への風当たりも強くなっていきました。

 

そんな中、意次の息子で“若年寄(老中の一つ下の位)”の地位についていた田沼意知が、江戸城で刺し殺されるという事件が起こります。

 

意次に批判的な人々はこの犯行を大喜びし、刺殺した犯人を讃えたといいます。

 

国のために身を削って改革を行った末、息子が殺害されるだけでなく、その死まで喜ばれてしまった意次は、失意の中で失脚してしまうのです。

 

こういった経緯もあり、ワイロ政治を行った悪役として描かれることの多い田沼意次。

 

そもそもこの時代、賄賂自体は特段珍しいものではなく、後任の松平定信でさえ意次に対して賄賂を贈っています。

 

ではなぜ田沼意次がこれほど庶民の反感を持たれたのでしょうか。

 

その要因として、周囲の嫉妬を買ってしまったことが考えられています。

 

もともと石高の低い立場から、老中までの大出世を遂げたことで、周囲からはよく見られていなかったのです。

 

それに意次自身は賄賂を自分のためではなく、部下への褒美や食事を振る舞うことに使っていたそうです。

 

近年では、景気を回復させた経済政策も注目され、再評価されつつある人物でもあります。

  

また、意次の経済政策によって貨幣経済が安定し、江戸の経済が潤ったことも事実です。

 

これによって歌舞伎や浮世絵などの江戸文化が花開くことになり、文化面においても意次は大きな貢献をしていたのです。

 

見る角度が変えると、印象がガラッと変わりますね。

 

そんな田沼意次の横顔でした。

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