心理学歴史

【歴史を変えた心理学⑫】闇深き小児科医ハンス・アスペルガー(前編)

心理学

【前回記事】

 

この記事では著書“図鑑心理学”と自分が学んできた内容を参考に、歴史に影響を与えた心理学についてまとめていきます。

 

心理学が生まれる以前、心や精神とはどのようなものだったのかに始まり、近代の心理学までをテーマとして、本書から勉強になった内容を取り上げていきます。

  

今回のテーマは「ハンス・アスペルガー」についてです。

    

   

   

ハンス・アスペルガー

自閉スペクトラム症とサヴァン症候群の記事にて、アスペルガー症候群の由来となったオーストリアの医師(小児科医)、ハンス・アスペルガーを紹介しました。

  

彼の出版物はドイツ語で書かれおり、当初は翻訳もほとんどされていなかったことから、国際的な認知度は高くありませんでした。

 

1980年代、イギリスの心理学者ローナ・ウイングがアスペルガーの研究について発表したことから“アスペルガー症候群”が定義され、1990年代以降に広く認知されることになります。

 

そんなアスペルガーですが、彼自身も幼い頃はアスペルガー症候群だったのではないかと言われています。

 

ここから、前編と後編に分けて彼の生い立ちや功績、そしてアスペルガーにまつわる深い闇についてまとめていきたいと思います。

 

前編となる本記事では、彼が生まれてから亡くなるまでをまとめます。

 

ヨハン・ハンス・フリードリヒ・カール・アスペルガー(1906~1980年)

 

ハンス・アスペルガーは1906年2月18日、オーストリアのウィーンで生まれ、町の近郊にあるハウスブルンの農場で育ちました。

 

母からは愛され、父からは厳しく育てられたと自身で語っています。

 

頭も良く勉強ができたアスペルガーですが、なかなか友達ができず孤独な少年時代を過ごしたと言われています。

 

学生時代彼は、オーストリアの詩人フランツ・グリルパルツァーに興味を持っていたものの、それに興味のない友人に対して彼の詩を熱弁したり、自分の言葉を引用し第三者視点で話すなど、友人との距離感をつかめないのが原因だったとされています。

 

こういった一面から、アスペルガー自身がアスペルガー症候群だったのではないかとも言われています。

 

コミュニケーションに難ありの彼でしたが、青年期には、ドイツ青年運動の保守組織が主催するワンダーフォーゲル運動に参加したことで、 高い性を身につけていくことになりました。

 

本人はこの経験を、「私は、ドイツ精神の最も高貴な花の一つである、ドイツの青年運動の精神によって形成された」と述べています。

 

その後、彼はウィーン大学にてフランツ・ハンブルガーの下で医学を学び、付属の小児病院で診察を行うようになります。

 

1931年に医学の学位を取得し、翌年にはウィーンの大学小児科医院の特殊教育部門の責任者になります。

 

2004年にノーベル文学賞を受賞したエルフリーデ・イェリネク氏もアスペルガーの患者の一人です。

 

エルフリーデ・イェリネク Ghuengsbergより

 

彼女によると、アスペルガーは診察室からほとんど離れることはなく、空いた時間で子ども達に本を読んであげるという優しい一面をもっていたそうです。

 

1935年には、ハンナ・カルモンと結婚し、5人の子どもを授かりました。

 

娘のマリア・アスペルガー・フェルダーは父と同じ道を歩み、児童思春期精神医学の専門家としてチューリッヒで開業をしています。

 

1938年10月3日、ハンス・アスペルガーは、ウィーンの大学病院の治療教育学部で講演を行い、その中で「自閉的精神病質者」の特徴を発表。

 

そのような者たちは、「本人とその反応が自分自身に閉じこもり、その結果、環境の刺激に対する反応が制限される」としています。

 

また、そこから数年に及ぶリハビリのデータ分析から、「自己中心的で、他人の立場に立って物事を考えることができず、人と関わることができない」者がいるのと同時に、自分の興味、関心のある分野については、驚くほどの知識を蓄積していたり、驚異的な記憶力や計算能力を備えている場合があるとも述べています。

 

彼はこのような子どもたちを「小さな教授のようだ」と表現しています。

 

そういった才能を持つ子どもたちに感動したアスペルガーは、「教育によって、望ましい特徴を伸ばすことや、社会に適応できる能力を身につけられる環境を提供するべきだ」と述べ、障害児のために可能な限り力を尽くしていました。

 

asperger-syndrome.me.uk より

 

そうした功績や観察研究の結果は、「治療教育学」という彼の著作にも現れており、後の児童精神医学に大きく貢献することになります。

 

1939年になると第二次世界大戦(1939~1945年)が勃発。

 

アスペルガーは、ユーゴスラビアで軍医として従軍しました。

 

1944年に“アスペルガー症候群”についての論文を発表しましたが、ヨーロッパ各地が戦時下にあっために注目されることはありませんでした。

 

戦争末期には、シスター・ヴィクトリーネ・ザックとともに子どもたちのための学校を開設したりと、戦時中においても児童教育に貢献しようとしていました。

 

しかし、爆撃によって学校が破壊されたことや、ヴィクトリーネが戦争の犠牲になったことで支援の持続が不可能になりました。

 

戦後になってからも、アスペルガーは医療界の重鎮として活躍し続け、1980年に死去するまでその治療と研究を続けていきました。

 

また、1974年のインタビューで彼は、「ナチス政権下で彼はナチスによる選民思想や人種迫害に抵抗し、障害児を選民施設に送ることを拒否していた」と述べています。

 

これによってゲシュタポナチスの国家秘密警察)に逮捕されそうになったと主張し、その勇敢な姿を称賛する声が絶えませんでした。

  

2006年には彼の生誕百周年を記念し、“国際アスペルガー年”と定められました。

  

彼の崇高な精神と名声は、医師や教育者の鏡として称えられることになったのです。

 

……2018年までは。

  

(後編へ続く↓)

 

 

まとめ

・アスペルガーの生い立ちから亡くなるまでをまとめた記事

・アスペルガー症候群の子たちに対して、「社会に適応できる能力を身につけられる環境を提供するべきだ」と主張した

・また、ナチスの選民思想に抗って子たちを守った英雄として讃えられることになった

コメント

タイトルとURLをコピーしました