哲学

【韓非子⑧】相手が何を欲しているのかを汲み取って話すことの難しさ

哲学

【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

     

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

      

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

   

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

    

今回のテーマは“説の難きは説く所の心を知ること”です。

 

   

  

説の難きは説く所の心を知ること

【本文】

凡そ説(ぜい)の難(かた)きは、吾(わ)が知の以て之を説く有るの難きに非ざるなり、又吾が弁の能(よ)く吾が意を明らかにするの難きに非ざるなり、又吾の敢(あえ)て横佚(おういつ)にして能く尽くすことの難きに非ざるなり。

  

凡そ説の難きは、説く所の心を知り、吾が説を以て之に当つ可(べ)きに在り。

 

説く所名高の為にするに出ずる者なるに、而(しか)も之に説くに厚利を以てせば、則(すなわ)ち下節にして卑賤に遇すると見て、必ず弃遠(きえん)せん。

 

説く所厚利の為にするに出ずる者なるに、而も之に説くに名高を以てせば、則ち無心にして事情に遠しと見て、必ず収めざらん。

 

説く所陰(ひそ)かに厚利の為ににし、而(しこう)して顕に名高の為にする者ならんか、而るに之説くに名高を以てせば、則ち陽に其(そ)の身を収め、而して実は之を疎(うと)んぜん。

 

之に説くに厚利を以てせば、則ち陰に其の言を用い、顕に其の身を弃(す)てん。

 

察せざる可(べ)からざるなり。

  

【解釈】

およそ人に意見を述べることの難しさとは、知識が十分に足りないことではなく、意見をはっきり伝える弁舌がないことでもなく、人に構わず自分の言葉を言い尽くすだけの度胸がないことでもない。

 

およそ人に意見を述べることの難しさは、話す相手の心を知り、自分の意見をそこに上手く当てがうことである。

  

例えば、相手が今、高徳の名を得るために何かしようと思っているとする。

 

そのとき、私がこの相手に、こうすれば利益が多いだろうということを説明し始める。

 

すると相手は、私を程度の低い人間だと思い、かつ自分を軽蔑していると感じて必ず見捨てるだろう。

 

また、相手は利益を多くしようとするために何かをしようと思っているとする。

 

そのとき、私が相手に高徳名誉のことなどを持ち出せば、相手は私を気の効かぬ世間知らずと思い、受け入れてくれることはないだろう。

 

はたまた、相手が陰では利益を多くする為に動いていながら、上部ではさも高徳を行なっているように見せかけているとする。

 

なのに私がもし高徳名誉の話などしようものなら、上部では喜んでいるようにみせながらも、本心では相手にしてくれない。

 

逆に、私が利益の話をした場合だとしても、陰では私の説を採用しながらも表向きは私を突き放すだろう。

 

相手の心の中をよく考えなければならない。

 

 

相手が何を欲しているのかを汲み取って話すことの難しさ

どれだけ自分の知識があろうとも、相手が欲していないことを話したところで聞いてくれないということですね。

 

特に、「相手が陰では利益を多くする為に動いていながら、上部ではさも高徳を行なっているように見せかけているとする」という場合はとても難しいですね。

 

世界のため人のためと綺麗事を言っておきながら、実は自分たちの利益になるからやっている”なんてこともあるでしょう。

 

そんな人に対して、「もっとこうすれば世のためになる」と言って助言をしたところで、「それはいい案ですね」と言いながらも結局は何もしない……、といった結末でしょう。

 

中々人の意を汲み取るというものは難しいものですね。

 

韓非の師とされる荀子もこう言っています。

 

“凡そ説の難きは至卑を以て至高に偶い、至治を以て至乱に接す”

「およそ弁説の困難さは、聖人の考慮した最高の道理を愚昧な最低の人に知らせることであり、最もよく治まった姿をもって最も乱れた世に向かって適用させることである。」

 

韓非の説難についての考えは、こういった荀子の影響も関係していると考えられます。

 

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