哲学

【韓非子⑩】「人主逆鱗」「逆鱗に触れる」の語源

哲学

【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

     

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

      

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

   

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

    

今回のテーマは“説者(ぜいしゃ)能(よ)く人主の逆鱗に嬰(ふ)るる無くば、則(すなわ)ち幾(ちか)からん”です。

  

    

   

説者能く人主の逆鱗に嬰るる無くば、則ち幾からん

【本文】

昔者(むかし)、弥子瑕(びしか)、衛君に寵(ちょう)あり。

  

衛国の法、窃(ひそか)に君車に駕(が)せし者は罪として刖(げっ)せられる。

 

弥子瑕の母病なり、人間(ひそ)かに往(ゆ)き、夜、弥子に告ぐ。

 

弥子矯(いつわ)りて君車に駕して以て出ず。

 

君聞きて之(これ)を賢とし、曰わく、孝なる哉(かな)、母の為に故其の刖罪なるを忘る、と。

 

異日、君と果園にて遊び、桃を食うに甘し、尽くさずして、其の半ばを以て君に啗(くら)わす。

 

君曰わく、我を愛する哉、其の口味を忘じて、以て寡人に啗わす、と。

 

弥子色衰え愛緩むに及び、罪を君に得。

 

君曰く、是れ固(もと)より嘗(かつ)て矯りて吾(わ)が車に駕し、また嘗て我に啗わす与桃を以てす、と。

 

故に弥子の行いは、未だ初めに変わらずして、而も前の賢とせらるる所以を以てして、後に罪を得し者は、愛憎の変なり。

 

故に主に愛あるときは、則ち智当たりて親を加え、主に憎あるときは、則ち智当たらず、罪せられて疏を加う。

 

故に諌説談論の士は、愛憎の主を察して、而るのちに、説かざる可(べ)からず。

 

夫(か)の竜の虫為る柔なるときは狎(な)れて騎(の)る可きなり、然れども其の喉下に逆鱗径尺なる有り、若し人之に嬰(ふ)るる者有らば、則ち必ず人を殺さん。

 

人主亦(また)逆鱗有り。

 

説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くば、則ち幾(ちか)からん。

 

【解釈】

昔、衛の弥子瑕は君主のお気に入りだった。

 

衛国の国法として、君の許なく君の車を用いた者は刖(足切り)の刑に処せられるとされていた。

 

あるとき弥子は、母の病が重くなりいよいよと言う際、君主の車を許しが出たと偽って宮を出た。

 

それを知らされた君主は、弥子を褒め、「孝行者だ、母のために足を切られることを忘れてるようだ」と言った。(と言って無罪とした)

 

またあるときは、君の共として果樹園に行き、桃を食うと美味いので、その美味い果実を食い尽くさず、半分残したものを君に献じた。

 

君は喜び、「私を大切にしてくれている、美味いものを惜しまず、私に分けてくれた」と言った。

 

ところが、弥子の容色が衰え、君の寵愛の心が緩んでくると、罰を受けるようになっていった。

 

君は言った、「こやつは元来タチが悪く、いつぞやは私の車を勝手に使い、またいつぞやは食いかけの桃を私に食わせた」。

 

弥子の振る舞いが以前と同じであっても、以前は褒められた行動によって罪を着せられるようになった。

 

その理由は、君の愛憎の念が裏返ったからである。

 

つまり、君に気に入られているときは私の知恵は君主の心に響き、親はより強くなっていくが、一度恨まれたりでもすると、何を言っても受け入れてもらえず、疎ましさが増してゆく。

 

貴人に意見を述べたり忠告を試みる場合は、相手の愛憎の念をよく察して、それから話を持ちかけなければならない。

 

ところで、あの竜という生き物は、飼い慣らせば近寄って背中に跨ってもかまわない。

 

しかし、竜の喉元にある一尺ほどの逆さに生えた鱗を人間が触ったならば、必ずとり殺される。

 

同じく人主にも逆鱗と言うべきものがある。

 

意見を述べるときは、逆鱗に触れないようにするが良い、それが上手くいけば成功が期待できる。

 

 

“人主逆鱗”の語源

「人主逆鱗」という故事成語の語源や「逆鱗に触れる」という言葉の出典とされる節ですね。

 

この節では、君主の像愛を敏感に感じ取り、慎重に事を進めなければならないという事と、その上で細心の注意を払わなければならないということを述べています。

 

どれだけ相手のを掴もうとも逆鱗に触れ相手を怒らせてしまっては、こちらの話を聞きいれてもらえないどころか、場合によっては悪と捉えられかねません。

 

自分が何かを伝える際は、心を掴んだ相手だとしても一手間違えると取り返しがつかないことになりかねません。

 

そう言った点から韓非は、説難(ぜいなん)篇としてこの節をまとめたようです。

 

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