歴史

民間の工房が世界的な磁器ブランドに~ヘレンド①~

歴史

今回紹介するのは、ハンガリーの名窯ヘレンドです。

  

ルーマニア、オーストリア、セルビア、スロバキアに囲まれ、古来より様々な民族が入り乱れる文明の交差点であるハンガリー。

 

国家が分断されるほどの混乱を経て、産業面では実業家や職人が国を支える技術国家になっていった歴史を持ちます。

 

そんな、ハンガリーに由来する磁器工房の歴史について見ていきます。

 

 

ヘレンド創業

ヘレンドは、1826年ハンガリーのヘレンド村から民間によって開窯されたファイエンス工房が元になった磁器製作所です。

 

既に1710年にマイセンによってヨーロッパで磁器(硬質磁器)の製造技術が始まっており、ファイエンス工房(ヘレンド)は少し遅めに世に出てきた磁器メーカーとなります。

 

ヴィンツェ・シュティングル (1796〜1850年)

 

創業者であるヴィンツェ・シュティングルは、イギリスから伝わった乳白色の硬質陶器クリームウェア(詳しくはウェッジウッド参照)の製造に力を入れていました。

 

一方、彼は自らの工房で磁器の焼成をするべく研究も始めました。

 

当時、磁器工房の多くは宮廷が支援をする形で設立されることが多く、民間人の手によって開窯されることは珍しいことでした。

 

シュティングルの取り組みに興味を持ち、資金援助を行ったモール・フィシェルという人物がいます。

 

モール・フィシェル(1799〜1880年)

 

彼は、クリームウェア製造会社の経営者であり、様々な事業を起こしてきた実業家でもあります。

 

さて、シュティングルは磁器の研究に熱心でしたが、思ったような結果が出なかったことから、ローンの返済が滞り、創業から13年後にはフィシェルに経営権を渡しています。

 

工房を受け継いだフィシェルは、陶磁器の製造が盛んだったこの地域で工場の近代化を図りました。

 

工場制手工業を取り入れ、日用品の磁器を製造することでノウハウを蓄積していきました。

 

 

日用品から高級磁器製造へ

ヘレンドジャパン より

 

フィシェルが経営権を握ってから間もない頃、彼を支援していた、カーロイ・エステルハージ伯爵から、とあるディナーセットの補充を依頼されました。

 

その依頼は、ヨーロッパの磁器の原点であるマイセンを再現することでした。

 

フィシェルはこのチャンスを逃しませんでした。

  

マイセンの名器を忠実に再現し、ヘレンド窯の技術の高さを名門貴族に知らしめました。

 

これをきっかけに上流階級から食器の補充の依頼が殺到し、各地の著名な窯の特徴を再現しながら、多くの技術を蓄積していきました。

  

これを機に、ヘレンド窯は、日用品ではなく高級磁器製造へ路線を定めます。

 

1841年のハンガリー産業ロ博覧会では、業界の専門家から高い評価を勝ち取り、窯の名声は高まっていきました。

 

 

ロンドン万博とヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王(1819〜1901)画:フランツ・クサヴァー作 ヴィクトリア女王の肖像画 

 

1851年、イギリスにて世界初の博覧会であるロンドン万博が開催されます。

 

この頃、ハンガリーで随一の技術力を持っていたヘレンドは、この世界の最先端の文化を披露する祭典に参加する権利を得ます。

 

この際、まだ世界的に無名だったヘレンドの作品が、イギリス女王ヴィクトリアの目に止まります

 

 

これを気に入った女王は、ウィンザー城の食卓用に並ぶディナーセットをヘレンドに依頼します。

 

当時のディナーは、ただの夕食という側面だけでなく、上流貴族との交流において最もポピュラーな催しものでした。

 

自らの財力や権力を主張する場でもあり、そこに並ぶ作品として選ばれるということは、今で表すとオリンピックでチャンピオンになるレベルの偉業でした。

 

当時、絶頂期だったヴィクトリア女王から依頼を受けたことにより、ヘレンドの名声はますます高いものになっていきました。

 

このとき女王のお眼鏡にかなった絵柄は、現在でも”ヴィクトリア“シリーズとして見ることができます。

 

ヘレンド ヴィクトリア・ブーケ

 

 

ロスチャイルドバード

1860年、ヴィクトリア女王からのお墨付きをもらったヘレンドは、女王と交流のあったロスチャイルドをモデルとした作品を作ります。

 

その代表として“ロスチャイルド・バード”が挙げられます。

 

ヘレンド ロスチャイルド・バード

 

ロスチャイルド・バードの特徴2匹の小鳥と、枝にかかったネックレスです。

 

これにはある逸話があります。

 

ある日、ヴィクトリア女王が大切にしていたネックレスをなくして落ち込んでいました。

 

それを察したロスチャイルド家の男爵は、「それはきっと小鳥の仕業ですよ!」というユーモアを混じえ、小鳥とネックレスが描かれたティーセットを女王に送ったそうです。

 

事実かどうかはさておき、ヘレンドがこの逸話を再現した作品も大変な人気を博し、現在でもおなじみのシリーズとして作り続けられています。

 

 

アウガルテンの技術を継承

1864年、ハプスブルク家の衰退産業革命による大量生産の煽りを受け、オーストリアのウィーン窯(後のアウガルテン磁器工房)が閉鎖

 

オーストリア皇帝兼ハンガリー王のヨーゼフ2世は、門外不出であった“ウィーンの薔薇”などの型や絵付技術をヘレンドへ一時的に継承させます。

 

これにより、ハプスブルク家の注文をヘレンドが受け持つことになりました。

 

現在でも、アウガルテンとヘレンドにほぼ同じ模様の絵付けがあるのはこのためです。

 

アウガルテン ウィンナーローズ / ヘレンド ウィーンのバラ

  

名実ともにヨーロッパでトップレベルの磁器ブランドとしての名声を得たヘレンドは、各国の王侯貴族から注文を受けるようになっていきます。

  

これらハンガリー王国への功績を称えられたフィシェルは、民間出身の身でありながらフランツ・ヨーゼフ騎士勲章を授かります。

  

皇帝への謁見を許されたフィシェルには、ファルカシュハージという名が与えられ、貴族の仲間入りを果たし、ヘレンドの黄金時代を築いていったのです。

 

 

まとめ

・1826年ハンガリーのヘレンド村でシュティングルによって開窯

・その後、フィシェルの経営手腕によって高級志向へ

・万博にてヴィクトリア女王の目に止まったことから各国から注目が集まる

・他の磁器窯が衰退する中、ヨーロッパを代表する工房へと進化していった

     

シュティングルが立ち上げた工房が、フィシェルの手によって多くのチャンスをものにしながら育っていった歴史が見えてきましたね。

    

当時、すでに様々な磁器メーカーが存在していたにも関わらず、王侯貴族御用達の名窯となるのは相当の努力と運が必要だったはずです。

    

実力だけでは辿り着けない境地に至った名窯だとも言えます。

  

やはり運を手にするのは、常に準備をしている者の特権ということですね。

 

 

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