【前回記事】
前回記事では、ウィーン磁器工房(後のアウガルテン)の立ち上げからブランド化されていくまでの歴史を取り上げてきました。
①デュ・パキエ時代
②マリア・テレジア時代(ロココ時代)
③新古典主義時代
④ビーダーマイヤー時代
⑤アール・ヌーヴォー時代
でいうところの、①デュ・パキエ時代、②マリア・テレジア時代についてのお話ですね。
今回はその歴史の続きである、③新古典主義時代と④ビーダー・マイヤー時代についてまとめていこうと思います。
新古典主義時代
新古典主義(ネオ・クラシカル)は、フランス革命によって貴族の芸術だった“ロココ”が衰退した後に広まった美術様式です。
この頃、ポンペイやヘルクラネウムなどの古代ローマ遺跡の発掘によって、人々の関心が古代の美術へ向くようになりました。
ルネサンスが古典主義、再評価されたこの頃が新古典主義と区別できると考えて良いでしょう。
これを踏まえてアウガルテンの歴史に入っていきます。
マリア・テレジアに運営の実権が渡り、ハプスブルク家の贔屓になったウィーン磁器工房。
1784年、テレジアがこの世を去ると、神聖ローマ帝国皇帝の座をヨーゼフ2世(テレジアの息子)が継ぎます。
マリア・テレジアと共同統治を行なっていたヨーゼフ2世は、農奴解放令や宗教寛容令など、人民の権利を広める政策を行ったことから、“人民皇帝”や“民衆王”などと呼ばれるようになります。
テレジアの教育のもと芸術に関心を持ちながら育ったヨーゼフ2世ですが、贅沢を嫌った彼は、宮廷内で独占していたウィーン窯を民間に売却しようと競売にかけようとします。
しかし、買い手が現れなかったことや、職人たちに説得されたことから、窯は宮廷内で所有されることに。
この時、経営を担当する者として、コンラート・フォン・ゾルゲンタール男爵が選ばれます。
ゾンゲンタール男爵は、製造年月日や製造者、絵付け師などの記入を徹底させ生産の効率化を図りました。
またウィーン美術アカデミーで修行を積んだ陶工や絵付け師を積極的に招くことや、新たな技法を生み出すよう開発に力を入れるなど試行錯誤を重ねます。
その結果として、金粉を油に溶かして磁器に塗りつけたり、鮮やかなコバルトブルーで装飾を施す技術を確立させていきます。
また、絵画を描くような繊細なタッチで絵付けができるようになったことから次第に高級路線を打ち出し、“品質においては世界一”との呼び声が高まっていきます。
この1784年〜1805年頃のウィーン磁器工房の変遷を、新古典主義時代と呼んでいます。
ビーダーマイヤー時代
ビーダーマイヤーは、19世紀前半のドイツやオーストリアで流行った、日常や身近なものに関心を持つ美術様式を指します。
ドイツの風刺週刊誌に書かれた架空の人物ビーダーマイヤーから来ています。
この時代より少し前の1789年、フランス革命が勃発し、ルイ16世とマリーアントワネット(マリア・テレジアの娘)が処刑されてしまいます。
君主制の強かった周辺国家は、市民革命の余波を恐れ、フランスに対して戦争を仕掛けます。
このフランスの窮地を救ったのが、かの有名なナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)です。
ナポレオンは革命で分裂していた国内の各勢力をまとめ上げ、ヨーロッパ諸国との戦争に連戦連勝。
このタイミングで、オーストリアのウィーンが占領された際、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国皇帝の座を放棄することになり、オーストリア皇室として存続することになります。
その後、1813年にナポレオンがロシア遠征に失敗したことをきっかけに、翌年彼はエルバ島へ島流しにされてしまいます。
各国は、ナポレオンがいない間にフランス革命以前のヨーロッパに戻そうとウィーン会議を開き、お互い自国に有利な条件を引き出そうと画策します。
この会議はお互いの腹の探り合いになり長期化。
毎晩開かれる舞踏会によって「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたほどです。
しかしこの会議の長期化は、ウィーン磁器工房にとっては知名度を上げる良い機会でした。
舞踏会に集まる王侯貴族たちは、芸術愛好家が多かったため、最高峰の技術を備えるウィーン窯の名は瞬く間に広まっていきます。
その頃の市民はというと、産業革命によってブルジョワジー(財産があって豊かな階級)が急激に増加。
貴族文化に憧れたブルジョワジーたちは、誕生日や祝い事に高級磁器を贈り合うような貴族的な習慣を取り入れるようになりました。
これらの要因によって、ウィーン窯は経営的な側面でも成功を収めることになります。
この頃に誕生したモデルがビーダーマイヤーです。
ビーダーマイヤーの特徴は、所々に花が散りばめられ、主張しすぎない謙虚さにあります。
ウィーン会議によって、市民にとっては閉塞的な社会に戻りつつあるという背景もあり、友情や愛情といった意味が込められた、上品で控えめなカップを送り合うことが粋とされていました。
こういった動きの中で、豪華絢爛なものではなく、簡素で身近な日常的なものに目を向けようとするビーダーマイヤー的な風潮が高まっていったのです。
まとめ
・マリア・テレジアの死後、新古典主義が生まれる
・贅沢を嫌ったヨーゼフ2世がウィーン窯を売却しようとする
・買い手がつかなかった窯は、ゾルゲンタール男爵によって窯の経営が改善
・これ以降窯の技術力が大幅にアップ
・フランス革命の煽りで、ビーダーマイヤー様式が生まれる
以上、ウィーン磁器工房(アウガルテン)の新古典時代からビーダーマイヤー時代のお話でした!
一度は国に見放されそうになった窯でしたが、経営努力によってヨーロッパ屈指の磁器工房として進化を遂げたことが分かります。
この後、ハプスブルク家の力が弱まったことや産業革命によって大量生産が可能になり、他国の磁器にシェアを奪われていったことで、再び経営不振に陥るウィーン磁器工房。
この後の変遷は、次回最後に紹介するアール・ヌーヴォー時代にてまとめていきます。
【次回記事】
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