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門外不出!マイセンの焼成技術が流出 ~マイセンの歴史~

歴史

  

【前回記事】

 

マイセン歴代ロゴ 二本の剣 より

 

日本、中国の磁器からヨーロッパの磁器へと時代が移り変わり始めた18世紀。

 

1710年、ベトガーらによるマイセン窯の開窯によって、ヨーロッパにおける焼成技術はアウグスト2世の独占状態でした。

 

さて、欧州初の磁器焼成窯はマイセン窯ですが、2番目はどこでしょう。

 

それは1719年に開窯された“ウィーン窯”です。

 

今回は、独占状態だったマイセンの焼成技術がどのような経緯で流出していったのかについてのお話です。 

 

 

ベトガーの死と技術流出

アルブレヒト城 ベトガーの間 より (グラスを持っているのがベトガー/火を調節しているしているのがチルンハウス)

 

ベトガーらとともに磁器の焼成技術を我が物とした強王アウグスト2世

 

その技術を国外に漏らさぬよう彼ら陶工たちを軟禁し、磁器を作り続けるよう命じていました。

 

ドレスデンから25km離れたアルブレヒト城に量産体制が敷かれ、ベトガーは1719年にその死を迎えるまでそこで働くことになりました。

 

ヨハン・フリードリヒ・ベトガー(1682~1719年)

 

このベトガーの死は、マイセンの製磁技術の流出の大きなきっかけになります。

 

磁器製造技術を知っていたのは、ベトガーバルトロメイ(バルテルミ)、ネーミッツの3人のみでした。

 

しかし、バルトロメイとネーミッツのうち一方には素地の配合を、一方には釉薬の配合を把握するのみであり、製磁の全体像を知るのはベトガーのみでした。

 

それほど技術流出を恐れ、幾重もの対策をしていたことが分かります。

 

そんな中強王はベトガーに対し、絵付もするよう指示していました。

 

ベトガーは磁器の製造技術は持ち合わせていましたが、絵付の技術は持ち合わせていませんでした。

 

そんな状況もあり、外部から絵付師クリフト・コンラート・フンガーが招かれました。(1717年頃)

 

彼はマイセンの絵付け師として磁器製造に関わりますが、およそ3年後にベトガーが亡くなります。

 

そこに目をつけたのがオーストリアの帝国軍事官グラディウス・インノケンティウス・デュ・パキエです。

 

 

マイセン窯からウィーン窯へ

磁器を見つめるデュ・パキエが描かれた磁器

 

マイセンでの磁器焼成が成功したことを聞いたパキエは、自国オーストリアでも磁器を作るべく、1718年に工房を立ち上げます。(後のアウガルテン磁器工房

 

もちろん開窯時はマイセンのような磁器を焼き上げることはできません。

 

そこでパキエは、ベトガーが亡き後のマイセン窯から、絵付師のフンガーを秘密裏に連れ出すことに成功します。

 

しかしフンガーは、マイセンの製磁技術についてほとんど知りませんでした。

 

フンガーから得た、「製磁の全容を知るのはベトガーのみであり、彼と同等の立場であるバルトロメイとネーミッツでさえ、その半分ずつしか知らされていない」というの情報から、パキエは次の手を打ちます。

 

パキエが次に目をつけたのは、マイセン窯の陶工ザミュエル・シュテルツェルです。

 

ベトガーの助手として焼成や粘土の下ごしらえを担当していたシュテルツェル。

 

彼はバルトロメイとネーミッツと関係が深い人物とされていましたが、ベトガーから製磁については何も知らされていませんでした。

 

パキエはこのシュテルツェルに目を付け、彼をウィーン窯へ迎え入れることに成功します。

 

この際なんとシュテルツェルは、バルトロメイとネーミッツしか知らないハズの製磁技術を携えていました

 

パキエが情報を手に入れられるよう工作したのか、シュテルツェル自身がそうしたのか、真相は分かっていませんが、彼がこのマイセン窯からウィーン窯への技術流出の大きな要因であったことは確かです。

(この裏には生前のベトガーが絡んでいたのではないかとも言われています。)

 

有力な説では、ベトガーから気に入られていないシュテルツェルが、バルトロメイやネーミッツに相談している内に2人から秘密裏に製磁技術を学んでいったとされています。

 

また、パキエは別のルートを使ってベトガーが作った焼成窯の紙模型を持ち出させることにも成功し、1719年(ベトガーの死の翌月には)ウィーン窯での磁器生産体制が整っていくのです。

 

 

フンガーとシュテルツェル

磁器の焼成に成功したパキエでしたが、運営は思うようにいきませんでした。

 

すでに市場がマイセン窯が大きく取り込んでいたあったことからかか、予想していたほどの利益が上げられず、フンガーやシュテルツェルにも約束した報酬を支払うことができません。

 

このことから、フンガーは、ウィーンを去りイタリアのヴェネツィアをはじめ、スェーデン、デンマーク、ロシアと磁器焼成技術を各国に提供しながら磁器工房の立ち上げに関与していきました。

 

また、シュテルツェルマイセン窯へ戻っていきます。

  

この際、マイセン窯を裏切った罪滅ぼしの証としてウィーンから一人の天才絵付師を連れて帰りました。

 

ヨハン・グレゴール・ヘロルトです。

 

ヨハン・グレゴール・ヘロルト(1596〜1775)

 

ヘロルトがマイセン窯にきたことでマイセン磁器の絵付技術は飛躍的に進歩することになっていくのです。(ヘロルトについては話の路線が大分ズレてくるので、別の機会にてお伝えできればと思います!)

 

 

まとめ

・ベトガーの死によって技術が流出

・ヨーロッパで2番目の窯であるウィーン窯が磁器生産を開始

・これを皮切りに各国で磁器が作られるようになる

 

以上、マイセンの技術流出までの経緯をまとめさせていただきました!

 

裏ではベトガーが絡んでいたとも言われていますが、強王からの無理難題や労働環境の悪さ、それによるストレスで酒に溺れて死んでいったことを考えると、あながち嘘とは言い切れない気がします。

 

ベトガーの翌月にはウィーン窯で磁器製造が開始されたことも、奇跡的にことがうまく運ばない限りは不可能な気がします。

 

一体当時どんなことがあったのか、実際この目で確かめてみたいですが、今では想像の中で確信を得ていくしかありませんね。

 

そんなヴェールに包まれた歴史を想像するのも、また過去を覗く面白さでもあります。

 

それでは今回はこの辺で!

 

【次回記事】

 

 

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