歴史芸術

ヨーロッパを魅了した日本の陶磁器~有田焼と伊万里焼~

歴史

【前回記事】

 

以前、ヨーロッパの陶磁器(主に磁器)の歴史にて紹介した“マイセン”

 

マイセンが誕生するまで、白くつやのある磁器(白磁)を作ることができたのは、中国日本でした。

 

17世紀ごろの西洋社会では、東洋からもたらされた白磁が絶大な人気を博し、城内を白磁で飾ることがトレンドとなるほどでした。

 

後にマイセンを開窯のきっかけを作るザクセン選帝侯アウグスト2世は、東洋の白磁に魅了された人物の一人です。

 

アウグスト2世(1670~1733年)

 

ドレスデンに所有したツヴィンガー宮殿には、有田焼を含む東洋磁器を収集し、まるで美術館かのような専用の部屋まで作られたそうな。

 

今回のテーマは、そんな欧州を魅了した磁器の一つ、“有田焼の歴史”をまとめていきます。

 

 

有田焼とは

 

有田焼は、現在の佐賀県有田市を発祥とする陶磁器産業の一部です。

 

有田焼の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵から始まります。

 

織田信長が茶器を功労の対価とするほど、陶磁器に対して価値が見出されていたのは有名な話ですが、豊臣秀吉もその影響を受けていました。

 

秀吉は、中国で作られる磁器に非常に興味があり、それを自国でも作りたいと考えていました。

 

朝鮮出兵していた佐賀藩大名鍋島直茂は、秀吉の命によって出兵先から一人の陶工“李参平”をスカウトします。

 

李参平(?〜1655年)

 

李参平は、鍋島藩(現在の佐賀県)が所有する窯で磁器の製造に着手しますが、思い通りの焼き物が出来上がりませんでした。

 

そこで彼は、良質な磁鉱石を発見すべく藩内を散策していたところ、1610年初頭に“有田”の泉山に良質な鉱石があることを発見します。

 

李参平は、有田の上白川の天狗谷に窯を作り、“磁器”を焼成することができるようになりました。

 

1616年、藩主鍋島直茂に磁器を献上したことが有田焼の創業とされています。

  

 

明の崩壊と伊万里・有田焼ブームの到来

  

それまで磁器の中心は中国(明)でした。

 

ヨーロッパには明の磁器が多く輸出され、特に“白い金”と呼ばれた白磁は、王侯貴族たちの間で盛んに取引されていました。

 

1644年になると明が崩壊し、“”へと王朝が移り変わります。

 

清は、磁器の密貿易や海外勢力が力をつけてきたことから、ヨーロッパへの磁器の輸出を停止します。

 

これによって、ヨーロッパへの貿易の中心となっていた東インド会社は、輸出入産業に大打撃を受けることになります。

 

ここで白羽の矢が立ったのが日本の磁器でした。

 

1650年になると、伊万里を経由し、長崎の出島からヨーロッパへと磁器を輸出するルートが確立されました。

 

伊万里から輸出された磁器たちは、中国磁器同様にヨーロッパの王侯貴族から注目されることとなり、日本の一大産業となっていきます。

 

有田焼と伊万里焼の違い

当時は、肥前で作られた陶磁器有田焼、志田焼、波佐見焼など)が伊万里に集められて輸出されていたため、それらを総じて“伊万里焼(IMARI)”と呼ばれていました。

※現在では、和歌山県有田市で作られたものを、有田焼、佐賀県伊万里市で作られたものを伊万里焼と呼びます

 

 

 

鍋島藩窯の完成

鍋島藩祖 鍋島直茂 (1538〜1618年)

 

1670年になると、焼き物の中心地のひとつである鍋島藩は“鍋島藩窯”を完成させます。

 

それまでの民間で作られていた、各所の焼き物技術を結集させた最先端の窯でした。

 

抜擢された陶工達は、秘密保持のために構内に居住し、藩から派遣された監督者の監視のもとで生活をする反面、苗字帯刀が許されたり、全ての苦役を免ぜられるなど、手厚い待遇を受けました。

 

しかし、陶工たちは技量が落ちると罷免されることもあるため、日々技術の研鑽に勤しんだことが分かります。

 

厳選された陶工の登用、白磁鉱石、釉薬塗料など採算度外視でつくられた鍋島藩窯は、将軍家や諸大名、海外要人への献上品の焼き上げなどに存分に活用されるようになっていきます。

 

  

清の磁器輸出再開

1684年になると、清の内乱が落ち着いたことから遷界令が解除され、中国磁器の輸出が再開します。

 

しかしこの頃になると、日本の陶磁器作成技術は中国と同等、色絵・染付においてはそれ以上とも言われ、ヨーロッパでは日本製の陶器の人気が高まっていました。

 

特に中国の景徳鎮、日本の伊万里焼は絶賛されたと言われています。

 

ザクセンのヘラクレスこと強王アウグスト2世は、当時のヨーロッパ磁器コレクターを代表する人物の一人です。

 

アウグスト2世(1670~1733年)

 

彼は日本の“柿右衛門様式”を気に入り、それまで左右対称の美術であった陶磁器に非対称性の魅力を見出していきました。

 

柿右衛門様式(竹虎文 / 松竹梅鳥文) 柿右衛門 公式サイトより

 

後に完成させたマイセン窯の初期の作品は、柿右衛門様式を参考に写し作られるほどの入れ込みようでした。

 

マイセン窯 柿右衛門写し

 

やがて、マイセン窯が完成しヨーロッパで白磁が焼成可能になるとともに、日本製磁器の輸入は減っていきました。

 

それに伴い、日本では国内に向けての陶磁器生産に力を入れ、江戸時代を通じて一大産業として発展していくことになるのです。

 

 

まとめ

・朝鮮出兵時、鍋島直茂のスカウトによって李参平が渡来

・李参平が有田に良質な磁鉱石を発見することで日本でも磁器の焼成が可能に

・藩主鍋島茂公に磁器を献上したことで有田焼がスタート

・その後中国国内の内乱の影響もあり、日本製の磁器がヨーロッパへ輸出される

・マイセンが開窯するまで中国製陶磁器、日本製陶磁器とも人気を博す

 

以上、有田焼と伊万里焼きについての歴史についてのまとめでした!

 

もとは李氏朝鮮時代に日本が足を踏み入れたことから、磁器の歴史が始まりました。

 

朝鮮で陶磁器が日本ほど発展しなかった理由として、王朝の権力争いによって文化的な側面に力を入れることができなかったのではないかと考えられています。

 

中国の清王朝が政治的な問題に対処している間に日本の陶磁器が台頭したことや、採算度外視で焼き物に注力できたことなど、文化の発展は国力に余裕があるときに起こるようですね。

 

そんな陶磁器の歴史もまた面白いものですね。

 

 

【次回記事】

  

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