【前回記事】
前回記事はヨーロッパでの陶磁器発展の立役者となったベトガーとマイセンについてまとめていきました。
今回はそれに続き、ヨーロッパの名門陶磁器ブランド“ウェッジウッド”についてのお話しです。
ウェッジウッドがどのような経緯で生まれたのか、どのような経緯でブランドを確立していったのかをまとめていきます。
ジョサイア・ウェッジウッド
1730年、イングランドのスタッフォードシャー州に代々続く陶芸職人の末子(第13子)として生まれたウェッジウッド。
1739年、彼が9歳になる頃、父が他界してしまいます。
ストーク=オン=トレントの工房を兄が引き継いだことをきっかけに、ジョサイアは兄トーマスのもとで陶芸を習い始めます。
一流の陶工になるために陶芸のいろはを学ぶジョサイアですが、彼に悲劇が訪れます。
1742年、ヨーロッパで天然痘が流行りはじめたのです。
ジョサイアも天然痘にかかり、回復はしたものの後遺症として右足が動かなくなってしまいました。
ろくろ回すための右足が動かなくなるということは、当時の陶工にとって致命的でした。
そんな彼でしたが、陶工ではなく陶磁器の研究・開発に力を入れるようになりました。
1749年(22歳)になると兄の工房から抜け、自ら陶器販売を行うようになります。
この間にも、陶器の研究は続き、どういった陶器が人々から求められているのか、どのように売っていけばいいのかなど、ビジネスマンとしての才能も開花させていきました。
それから10年後、叔父のアイヴィーから自身が持つ工房を継がないかという誘いを受けます。
ウェッジウッドはこれを快諾。
1759年、アイヴィーハウスを引き継ぎ“WEDGWOOD”を創業しました。
ウェッジウッドのクリームウェア
彼は、自らの研究の成果をこの工房で発揮します。
前回記事でも触れたように、当時、白色の磁器は富の象徴であり、富裕層はそれをコレクションすることがステータスでした。
中国や日本では白磁の製造方法が確立されていたものの、ヨーロッパでそれらの製法を知る者は極一部でした。
彼はこの白色の陶磁器を作成するために、新しい釉薬や陶土の調合、焼く際の火加減などを事細かに記録し、過去の研究と照らし合わせながら実験を繰り返しました。
1761年、遂にジョサイアは、白い粘土と火打ち石を混ぜたものを釜の中で焼き、十分な温度に達したタイミングで塩釉(えんゆう)を入れることで硬質陶器を作る製法を確立します。
この製法は、塩に含まれるナトリウムと土の中のケイ酸が反応し、ケイ酸ナトリウムがコーティングされることによって、磁器のような白い陶器ができ上がります。
その色合いから“クリームウェア”と呼ばれたウェッジウッドの硬質陶器。
このクリームウェアが一躍有名になるきっかけとなる人物が存在します。
イギリスの実業家トーマス・ベントレーです。
ジョサイアとベントレー
ジョサイアは自らの陶器を売り込むために、商業の中心であるリバプールに足を運びます。
しかし、不自由な右足がさらに悪化し、病院にかかるほどになります。
後に、右足を切断することになりますが、なんと麻酔無しでやり遂げたと言われています。(諸説あり)
術後、医師に自分の境遇やリバプールへ来た目的などを伝えたところ、とある人物を紹介されます。
その人物こそがトーマス・ベントレーです。
ベントレーはジョサイアの勤勉な態度に深く感銘を受け、クリームウェアをはじめとするウェッジウッドの工房で生み出した陶器を売り出す手助けをします。
ベントレーの売り方は、それまで主流だった実物売り込み型の訪問販売とは全く別のやり方でした。
彼は、売り出す予定の陶磁器を専門の絵師によって紙に描き、その紙に装飾を施し一冊にまとめました。
つまりカタログを作成したのです。
商品のイメージが描かれたカタログを訪問時に渡すことで、自分が見たい時に手に取り、たくさんの陶器の情報を得られ、注文したい時に注文できるという方式は人気を博しました。
また、ウェッジウッドの製品を「高価だが高品質」というブランドを定着されるために、富裕層をターゲットとして売り込んでいきました。
王族御用達のウェッジウッド
これら努力もあり、ウェッジウッドのクリームウェアは、ジョージ三世の妃であるシャーロット王妃の目に止まりました。
王妃はウェッジウッドが作り出したクリーム色の陶器を気に入り、ティーセット一式の注文を受け一躍有名に。
その翌年には、王室御用達の陶器を“クイーンズウェア”と名乗ることを許され、上流階級のみならず、アメリカやロシアの王侯貴族など世界中から注文が殺到するようになりました。
この話は愛陶家で有名なロシア女帝エカチェリーナ二世の耳にも止まります。
彼女は50名分の食器を依頼しますが、これに対しウェッジウッドは1枚1枚にイギリスの1,222箇所の風景が描かれた食器を作成しました。
最終的には合計200人分、952個の食器を提供しました。
また、この作成を依頼された食器はフロッグ・サービスと呼ばれ、使われる予定だったチェスメ宮殿の周りにカエルが多いことにちなんで、食器の一部にカエルの紋章を描きました。
このようなひと手間を惜しまない仕事ができることも大きく評価され、王族・貴族を代表するブランドとしてその名を知らしめることになったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうかウェッジウッドの歴史。
片足を失っても陶器への情熱は失わず、研究を続けた人物の物語でした。
特にウェッジウッドとベントレー生涯の友となり、お互いをサポートし続けました。
ベントレーは死の間際でもウェッジウッドに対して敬意を払い、「彼ほど勤勉で研究熱心な人物はいない」と評するほどでした。
そんな人物たちが生み出したブランドについて一つ思い入れを感じてもらえたら嬉しいです。
後にウェッジウッドはベントレーの意思を継いで多くの功績を残しますが、それはまた別の機会に紹介しようと思います!
それでは今回はこの辺で!
【次回記事】
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