経済

【国富論⑩】国家として必要な経費〜司法費~

経済

【前回記事】

 

アダム・スミス(1723~1790年)

      

この記事ではアダム・スミス国富論を読み解いていきます。

        

見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。

       

経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。

         

前の記事から第五編に突入し、主権者や国家の経費についての内容をまとめていきます。

  

前回は、“防衛費”について触れていきました。 

   

スミスは、主権者の義務の一つは国を守ることであると述べ、防衛の必要性を主張しました。

  

戦争技術が発達していく中で国家の存続と拡大をするには、火器や訓練が必要であり、そのために経費や戦争が継続する際の費用などが防衛費として計上されていくとされています。

    

そんな軍事的な内容に対して今回は、国内の政治にかかわる経費(司法費)についてまとめていきます。

  

  

主権者の第二の義務

〜引用 第五篇 第一章 第二節~

   

主権者の第ニの義務、即ちその社会の各成員の不正または圧制からできる限り保護する、つまり厳正な司法行政を確立するという義務もまた、社会の様々な時期により、甚だしく異なる程度の経費を必要とするのである。

  

狩猟民族の間では、財産というものがほとんど全くなく、少なくとも二、三日の労働の価値を超える財産は何一つないから、何か常置の司法長官とか、正規の司法行政とかいうものは滅多に存在しない。

  

何ひとつ財産もない人々が互いに侵害し得るのは、ただ彼らの身体または名声についてだけである。

  

〜引用ここまで~

  

国民を統治する立場にある者の義務として、社会の秩序を保つことがあるとスミスは述べています。

 

そのために必要な経費が司法費に当たるとし、原始的な社会なのか、文明が進歩した社会なのかなど、社会の状態によって変わる経費を分析しています。

  

司法が必要になるポイントとして重要な要素は、“財産を持っているかどうか”だそうです。

 

狩猟民族などの原始的な社会状態においては財産という概念はほとんどないため、司法に当たるものは必要ないとしています。

  

  

司法長官が不要な状態

〜引用 第五篇 第一章 第二節~

  

ところが、ある人が他人を殺したり、傷つけたり、殴ったり、あるいは侮辱する場合、なるほど、侵害を受ける人は損害を被るけれども、それを与える人は、何の利益も受けない。

  

財産に対する侵害の場合は事情が違う。

 

侵害を与える人の利益が損害を被る人の損失に等しいことがしばしばあるのである。

  

妬み、悪意、または恨みだけが、ある人を刺激して、他人の身体や名声を侵害させる情念である。

  

けれども、大部分の人々が極めてしばしばこういう情念に動かされるということはないし、極悪の人でも時々そうするにすぎない。

  

大部分の普通の人々は、このような情念には慎重に考慮してそれを抑制する。

  

人々は、たとえこういう情念から自分たちを保護してくれる市民的司法長官が全然いなくても、かなり安全に共同生活を営むことができるであろう。

  

〜引用ここまで~

 

人を殴ったり、死に至らしめる場合などは、名声や身体に危害が及ぶことがありますが、それ以上に損得はないとスミス考えたようです。

 

多くの人々は、それらを感情的に行動行動してしまうのではなく、理性を持って制することが普通とされ、この場合は司法の必要性は薄いとされています。

 

しかし財産があると話は変わってきます。

  
奪う側と奪われる側に損得が発生するため、司法の必要性があると述べています。

  

  

司法の必要性

〜引用 第五篇 第一章 第二節~

  

ところが、富者の強欲や野心と、貧者が労働を嫌悪したり目前の安逸や享楽を好んだりすることは、財産の侵害を刺激する情念であり、前述の情念よりもはるかに執拗に作用し、はるか普遍的に影響を及ぼすものである。

  

多年の労働、または、おそらくは幾世代にも引き継がれた労働によって獲得された高価な財産の所有者がたった一晩でも安心して眠れるのは、市民的司法長官の庇護があればこそのことである。

  

彼は、いつも未知の敵に取り囲まれており、この的を怒らせることは決してないにしても、それをなだめることは到底できないのであって、この敵の不正から彼を保護し得るのは、それに懲罰を加えようと絶えず振り上げられている市民的司法長官の強力な腕だけである。

  

それゆえ、高価で大きな財産の獲得は、必然的に、市民政府の確立を必要とする。

  

財産のないところ、または少なくとも二、三日の労働の価値を超える財産が何一つないところでは、市民政府はそれほど必要ではない。

  

〜引用ここまで~

  

貧しいものが富者妬んだり、財産を奪ったりすることはよくあることで、先ほど説明した“理性によって起こってしまう暴力”よりも頻発してしまうと述べています。

  

そういった場合に必要になるのが財産の保護であり、司法によって財産をあらゆる不正や侵害から守ることが必要になるとしています。

  

個人、団体が大きな財産の獲得をすることで、自然と市民政府が形作られていくと述べています。

 

  

市民政府のはじまり

〜引用 第五篇 第一章 第二節~

  

財産の不平等が最初に生じ始め、それ以前には多分存在し得なかった程度の権威と服従とを人々の間に導入するのは、牧畜民の時代においてである。

  

富者は、物事の秩序を維持することに必然的に利害関係を持つのであって、彼らが有利な地位を保持することを彼らに保証しているのは、この秩序以外にはない。

  

富の少ない人々が、富野多い人々の財産の所有を団結して防衛するのは、富の多い人々に、自分たちの財産の所有を団結して防衛してもらうためである。

  

身分の低い全ての牧羊者や牧牛者は、大牧羊者または大牧牛者の牛群や羊群が安全であるからこそ、自分たちの牛群や羊群も安全であり、また、彼の大きな権威が維持されているからこそ、自分たちの小さい権威も維持されているのであり、さらに自分たちが彼に服従していればこそ、彼の権威も自分たちの、目下の者の自分達に対する服従を維持しているのだ、ということを感じている。

  

彼らは一種の小貴族を構成しているのであって、自分たちの声主権者が、自分たちの財産を防衛し、権威を支持しうるようにするために、小主権者の財産を防衛し、権威を支持するのが自分たちの利益だと感じている。

  

市民政府は、それが財産の安全のために確立されているものである限り、実は貧者に対して富者を防衛するために、すなわち、無財産の人々に対して若干の財産を持つ人々を防衛するために確立されるものなのである。

  

とはいえ、こういう主権者の司法上の権威は、経費の原因どころか、長い間彼にとっては収入の源泉であった。

  

彼に裁判を申請する人々は、常に喜んで、それに対する支払いをしようとしたし、請願には必ず贈物がついてきた。

  

大きな贈物を携えて裁判を申請した人は、正義以上の何物かを手に入れがちであったし、その反面、小さな贈物を携えて裁判を申請した人は、それ以下の何物かしか手に入れられないということになりがちであった。

  

裁判もまた、こういう贈物を繰り返させるために延期されることがしばしばあった。

  

そればかりではなく、被告人から罰金が取れるので、実は彼が間違っていない場合でさえ、間違っているという極めて強力な理由が持ち出されることもしばしばとしなかった。

  

こういう弊害が珍しくない所ではないということは、ヨーロッパのあらゆる国の旧史が立証するところである。

  

(中略)

  

このような贈物、即ち、裁判上の利得、つまり、法定手数料と言い得るものが、主権者がその主権から引き出す全経収入である限り、彼がそれらを全部放棄するなどということを期待する訳にはいかないし、体裁よく提案することさえできることではなかった。

  

物事のこの状態が続いている間、こういう贈物の恣意的で不確定な性質から自然に生じる裁判の腐敗に対しては、有効な救治策の施しようもほとんど全くなかったのである。

  

〜引用ここまで~

  

牧畜民のような生活をする者たちには、彼らの財産の保護のために秩序を守る仕組みがあったとスミスは述べています。

  

彼らは羊や牛などが財産であり、財産を守るために貧者は富者を守り、逆に富者が貧者を保護する構造を体系的にまとめています。

  

その結果、富者が自身の財産を守るような、または支持を得るために市民を守るような規律ができ、文明的な社会構造ができあがっていくとしています。

  

このシステムの問題点として、司法の腐敗が挙げられます。

  

司法長官に対する賄賂など、公正な判決が下されなくなる要因を排除できなかったようです。

 

裁判官の報酬を印紙税などによって賄おうとしましたが、欲を抑えきれない一部の裁判官は、その法的手続きを増加させて利益を得ようとするだけであったことから、公正な裁判制度整えるのは簡単ではなかったようです。

  

  

司法費

  

〜引用 第五篇 第一章 第二節~

  

ところが、さまざまな原因から、特にその国民を他の諸国民の侵略から防衛するための経費の不断な増大から、主権者の私的な所有地では、主権についての経費が到底まかないきれぬものになり、そして、人民が自分自身の安全のために、さまざまな種類の租税を通じて、この経費を貢納することが必要になった時、主権者も、またはその執行使や代理人である裁判官も、司法行政に対してはどのような口実に基づく贈物も受け取ってはならない、ということが極めて一般的な条件として要求されたように思われる。

  

〜引用ここまで~

  

ここで現れるのが司法費です。

  

司法の腐敗を防ぐために、裁判官の報酬主権者や国家が賄おうという仕組みができあがっていきました。

  

それまで裁判官の収入となっていた物品や賄賂の受け取りを禁じることで、秩序が保たれるようになったとスミスは主張しています。

  

またこのような経緯も含め、司法権と行政権は分離されなければならないとも述べています。

  

行政と司法が一体となっている場合、腐敗の意識がなかったとしても国家の利害のために個人の権利が犠牲になる可能性があるからです。

  

  

まとめ

・主権者の第二の義務=財産を守るための秩序を保つ

・財産の所有が司法を生み出すきっかけ

・財産の保護ために市民政府が形作られる

・富者と市民が相互に守られるための規律が文明社会の進歩になる

・特別な規制が無い状態では、賄賂などによって司法の腐敗が現れる

・それを防止するために司法に対して財産を与える仕組みが作られる

・その財産を安定して賄うのが司法費

  

以上、司法費についてのまとめでした。

  

司法は単純に善悪を裁くためのものではなく、財産保護のために必要な仕組みだったことが分かりますね。

  

裁判官の買収などもこの頃からは問題になっていたようで、司法の根幹は公的な資金によって運営されなければ腐敗の原因になってしまうのですね。

  

法を上手く活用するというのは、今では資産管理の常識ですし、知らない&行動しないだけ損をしてしまいます。

  

日本においては例外ではなく、自分の資金に関わる法を学んでおくことで、無用な出費や必要以上の税金を払わなくて済みます。

 

そういう点においても常に学ぶ姿勢が必要なのだと思います。

【次回記事】

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