【前回記事】
この記事ではアダム・スミスの国富論を読み解いていきます。
見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。
経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。
前回は、資材と資本について触れていきました。
人は、直接消費する以上の資材があると、余った資材から収入を引き出そうとすることや、収入を得られる可能性のある資材を資本と言うことなどをまとめてきました。
資材などの生産物が世の中を巡る際、その媒介となるものが貨幣です。
スミスは貨幣自体を資材の一部と捉えており、とりわけ特別なものであると考えました。
今回のテーマは、スミスが特別視した“市場における貨幣”についての話です。
貨幣が持つ性質について以下にまとめていきます。
貨幣と貨幣額
〜引用 第二編 二章より~
我々がある特定額の貨幣について語る場合、我々は、それを構成する金属片しか意味しないときもあるし、またそれと交換に得られる財貨、つまりその所有がもたらす購買力に対する漠然とした関連をその中に含意させる時もある。
イングランドの流通貨幣は1800万ポンドと算定されている場合、我々が意味しているのは、ある著述家がこの国に流通しているものと想定したり、否、むしろ想像したりした金属片の総額を表そうというだけのことである。
しかしながら、ある人は1年につき50ポンドまたは100ポンドに値するという場合、普通我々は、年々彼に支払われる、金属片の総額ばかりではなく、年々彼が購買してきた、消費し得る財貨の価値も表現しようとしているのである。
つまり我々は、彼の暮らし向きがどのようなものであるか、またはどのようなものであるべきか、言い換えれば、彼が自分自身に満足できる生活必需品及び便益品の量および質はどのようなものであるかということを突き止めようとしているのである。
〜引用ここまで~
金貨や銀貨で取引が行われていた当時、貨幣額は鋳造した貨幣そのものを表わす場合と購入できる財貨を表す場合にも使われていました。
50ポンド(現在の日本円で概算300万~400万円前後)を貰うと言った場合、受け取った貨幣額と消費する財貨の両方を表しているため複雑化しているとスミスは指摘し、その価値を解き明かそうとしました。
実質的な収入
〜引用 第二編 二章より~
もしある特定の人が毎週受け取る年金が1ギニであるとすれば、彼は一週の間に、このギニ貨で言ってるような生活資料、便益品および娯楽品を購入することができる。
この量の大小に比例して、この人の実質的富つまりその実質的週収入もまた、大ともなれば小ともなるのである。
彼の週収入が、このギニ貨とそれで購入できるものとの双方に等しくないことは確かなのであって、これら二つの等しい価値のいずれか一方だけに等しいのであり、いっそう適切にいえば、前者よりも後者、つまり1ギニ貨の値そのものよりむしろ1ギニ貨の値に等しいのである。
もしこのような人の年金が、金ではなしに1ギニの週手形で支払われるにしても、彼の収入が、適切に言えばその紙片からというよりも、むしろそれと引き換えに彼が獲得し得るものから成り立つことは間違いなかろう。
我々はしばしば、ある人の収入を年々の、その人に支払われる金属片で表すけれども、その理由はこれらの金属片がその人の購買力の大きさ、つまり彼が年々に消費し得る財貨の価値を規定するからに他ならない。
こういう場合にも、我々は彼の収入がこの購買力、または消費力から成り立つと考えるのであって、こういう力をもたらす金属片から成り立つとは考えないのである。
〜引用ここまで~
収入を貨幣額で表すことがほとんどですが、実際には貨幣の価格を表しているのではなく、生活に必要な資料などを便宜的に表しているに過ぎないと言うことが見て取れます。
お金をが目的なのではなく、お金で何を得るかが目的であることと似ていますね。
スミスは、「実質的な収入とは、お金を受け取った人の生活資料等々のこと」だと言っています。
社会における貨幣
〜引用 第二編 二章より~
これらの事実が個人の場合でさえ十分明白だとすれば、社会の場合にはなおさらそうである。
ある個人に年々支払われる金属片の総額が、彼の収入に正確に等しいことはよくあるのであって、そうであるからこそ、この額は彼の収入の価値を最も簡潔にしかも最も十分に表現しているのである。
しかしながら、ある社会に流通している金属片の総額が、その全成員の収入に等しいということは、決してありえない。
今日ある人の毎週の年金に支払われるのと同一のギニ貨は、明日はもう一人の人のそれに支払われ、明後日は第三の人のそれに支払われるかもしれないから、ある国で年々流通している金属片の総額は、年々にそれで支払われる年金の全貨幣額よりも常にはるか少ない価値であるものに違いない。
それゆえ流通の大車輪であり、商業の偉大な用具でもある貨幣は、職業上の他のすべての用語と同じように、資本の一部、しかも非常に貴重な一部を成しているにしても、それが属する社会の収入のどのような部分をも成すものではないし、またこの貨幣を構成する金属片はその年々の流通過程において、当然各人に帰属すべき収入をその人に分配し話するにしても、それ自体としてはこの収入のどのような部分をもなしていないのである。
〜引用ここまで~
ある個人に支払われる貨幣の量が、その人の実際の収入に等しいことはよくあることです。
しかしスミスは、個人全ての貨幣による収入を全て合わせたら、国の収入を表わすことになるかと考えてみると、そうではないと言っています。
ある人に支払われた貨幣は、生活資料を購入するために誰かの手に渡ります。
そしてその誰かに渡った貨幣は、何かを購入する事に別の誰かに……、と実際に国内で流通している貨幣は、考えられる国の富と比べるとはるかに少ないと分析しています。
このことから貨幣は、職業上において材料、食料、完製品などと同じく資材に分類されますが、他の3つの資材と比べると、特別な資材なのだと結論付けています。
紙幣と国の富
〜引用 第二編 二章より~
金銀貨幣の代わりに紙幣を代用するのは、商業の極めて高価な用具を遥かに経費がかからず、しかも同等に便利な用具に置き換えることである。
流通は新しい車輪で行われるようになるのであって、しかもこの車輪はそれを建造するにも維持するにも古い車輪ほどには経費がかからないのである。
紙幣には様々な部類のものがあるけれども、銀行や銀行家の流通手形は最もよく知られた種類のものであって、この説明の目的にも最もよく適しているように思われる。
ある特定国の人民がある銀行家の財産、誠実、および慎慮に大して非常な信頼を置き、自分の約束手形をどのような時に提示しようとも、この銀行家は常にこの要求に応じて支払ってくれる用意があると信じている場合には、こういう手形はそれと引き換えにいつでも金銀貨幣が得られるという信頼に基づき、金銀貨幣と同一の通用力を持つようになる。
〜引用ここまで~
知られている限り最初の紙幣は、十世紀頃の中国北宋時代の“交子”だと言われています。
ヨーロッパにおいては1661年7月16日、ストックホルム銀行が貨幣不足の解決案として、指定の量の鋳貨と交換できる兌換紙幣を発行したことが始まりとされています。
紙幣は金属貨幣よりも低いコストで生産でき、維持費も比較的抑えることができます。
この紙幣の登場によって、国は金・銀貨の余りが出てくることになります。
例えば、ある銀行家が手形で10万ポンドを貸し付け、3万ポンドの金・銀貨を手元に置いておいたなら、残りの7万ポンドが流通の中から節約されることになります。
節約された7万ポンド分の金、銀は海外送ることもでき、財貨と交換することが可能です。
このようにして消費財の蓄積をすることが、国の富に繋がるとスミスは考えたのです。
この考えは、スミスの大きな主張の一つである“重商主義批判”に繋がっていくことが分かります。
まとめ
・貨幣(金貨や銀貨)は金属としての価値と物と交換できる価格の両方が混在している
・個の収入における貨幣は、生活に必要なものをどれだけ購入できるかを表している
・個人が収入として受け取った貨幣を全て集めても、国の総収入にはならない(重商主義批判①)
・貨幣は個人と個人の間で財貨を得るために行き来しているため、実際の収入額面よりもはるかに少ない流通量で足りている(重商主義批判②)
・よって国の豊かさとは金属の量ではなく、消費財の蓄積量(重商主義批判③)
以上、貨幣と紙幣についてのまとめでした!
ついに紙幣についても触れられるようになってきましたね。
彼は紙幣が国内に出回ると、それまで必要としていた金や銀など貨幣として価値を持っていた金属類が自由になり、外国の財貨と交換することができると言っています。
このスミスの主張は、それまで“国の豊かさは金属の貯蓄量である”という常識を真っ向から変えることになっていきます。
ただし、紙幣を好きなだけ刷ればいいのかというとそうではありません。
彼はイングランド銀行やスコットランド銀行での失敗を例に、最低限政府が流通をコントロールする必要があることも指摘しています。
後に出てくる“小さな政府といった”の考え方もこの時点で端々に見えてきますね。
お金とはあくまで目的を達成するための手段であることを考えさせられる章でした。
使わなければただの金属片……というのは言い過ぎかもしれませんが、手段が目的になってしまうのは本末転倒ですね。
お金とはあると便利なものではありますが、それに振り回されないように考えることも必要であることに気付かされます。
【次回記事】
コメント