前回カントは人間は感性と悟性によって世界を認識していると考えていることを書きました。
今回はこの話を前提にカントの考えを深掘っていきます。
ア・プリオリとア・ポステリオリ
カントはまず、人間は”ア・プリオリな理解”を持っていると言います。
ア・プリオリは経験はしていないのに知っている知識のことを指します。
彼は例に、時間や空間の認識を挙げています。
全ては時間と空間の中にありますが、目に映るものは感性(外の刺激に反応して印象を感じる認識方法)によって経験することができます。
目に映るものは感性によって経験することができ、経験によって得た知識を“ア・ポステリオリな理解”と言います。
(ややこしくなるので、以下ではア・プリオリやア・ポステリオリという言葉は省略します。)
バラの認識
あなたが一本のバラを見るとき、その見え方は様々です。
上から、下から、横から…見る角度によって形は変わっていきますし、時間が経てば花びらは落ちているかもしれません。
しかしどれも同じくバラと認識します。
このバラと言う認識は、どの感覚からも得られないことから、“悟性(経験から物事を認識する方法)”からくるものだと考えました。
そして人間は、感性と悟性の共同作業によって世界を認識していると主張したのです。
バラの本当の姿
人間ではないものから見たらどう見えるのか……。
先に書いたように、カントは人間は自分の感性と悟性によって対象を認識していると考えました。
さたに彼はこうも考えます。
「その対象が本当の姿をしている保証はあるのか?人間以外が見たら同じように見えるのか?」
人間がバラと認識している対象物を見ているとき、同じものを他の生き物が見たらどう見えるのか疑問に感じたのです。
現在の科学では鳥や虫などが花を見るとき、紫外線や四原色など人間には見えない波長の光を捉えたりすることが分かっています。
カントは科学がそこまで及んでいない頃から、この現象に通ずる考えを持っていたのです。
コペルニクス的転回
上で紹介した例は科学的に見た一部に過ぎません。
カントが言いたかったことは、”我々が見ている対象は、真の対象ではない”ということです。
あくまでも人間が認識する枠の中での現象であり、現象と対象は別のものであると考えたのです。
この考えは哲学界に大きな衝撃を与えました。
それまでの哲学の認識論では、対象をそのままの対象と認識し、真の存在だと考えていました。
ところがカントは、“それは人間の認識の枠の中の話である”と言い、真の姿を知ることはできないと主張したのです。
認識の実態に疑問がなかったそれまでの哲学にとって、認識することから考え直さなければならい一大事でした。
認識は対象によって決定される
という考え方から
対象は認識によって決定される
という認識の転換は、コペルニクスが起こした天動説から地動説への認識の転換に例え“コペルニクス的転回”と言われています。
関連記事
・イマヌエル・カント関連
・天動説と地動説関連
コメント