の続き…。
第一次世界大戦勃発
1914年7月になると第一次世界大戦大戦が勃発。
このとき既にアインシュタインは一般相対性理論の大部分を完成させていました。
この理論には星の重力によって光が曲がる可能性が示されています。
つまり、太陽の後にある星は見ることができないとされていましたが、太陽の重力によって光が曲がり、観測がが可能になるという予測が立てられました。
同年の8月、アインシュタインはドイツとアメリカの天文学者によって、皆既日食の観測を行い重力による光の影響を調べようとしました。
しかし、8月1日にドイツがロシアに対して宣戦布告。
ドイツの天文学者は、一度国に帰るかロシア兵によって捕虜になるかの厳しい選択を強いられました。
米国の天文学者によって観測は実行されたものの、皆既日食の日に雲がかかってしまい観測は失敗に終わりました。
1916年、大戦の最中アインシュタインは一般相対性理論を発表します。
一般相対性理論の立証のため、彼はアメリカ人のウィリアム・W・キャンベルに依頼し、ロシアの端にあるクリミア半島での観測を実施させます。
再び皆既日食によって太陽の周りの星を観測しようとしましたが、これも雲がかかってしまったために失敗に終わります。
一般相対論が広く知られる
第一次世界大戦の終結後の1919年、今度はケンブリッジ天文台による観測(エディントン実験)が行われました。
アインシュタインの一般相対性理論を読み、強く関心を持ったアーサー・スタンリー・エディントンによるものでした。
彼は、後にアインシュタインの理論を理解したであろうと思われる数少ない人物のひとりとして数えられています。
この観測結果によって、太陽の重力場によって光が曲げられる現象が確認されましたが、理論の立証には至りませんでした。
また、ドイツ敗戦の影響から陰謀論的に理論を認めない勢力の力があったことも確かでした。
しかし世界中のマスコミがこの出来事を取り上げたことから、アインシュタインの名は世界中に知れ渡ることになるのです。
理論の妥当性が立証される
1922年になると、オーストラリアでの皆既日食に合わせ、ウィリアム・W・キャンベル(クリミア半島での観測者と同一人物)率いる七つの観測隊が派遣されました。
ほとんどの隊が観測に失敗しましたが、キャンベルの隊だけは正確な観測データを記録することができました。
この記録は“アインシュタインの予測と正確に一致する”と評されました。
これによって重力による光の進路への影響が立証されました。
・実際の観測結果の映像
ノーベル賞受賞
その頃アインシュタインは、世界を渡り歩いていました。
1921年にはパレスチナのエルサレムに創立予定のヘブライ大学の建設費用を集めるために、アメリカ、イギリスを訪問。
1922年3月にフランスに訪れた他、10月には日本に向けて客船北野丸に乗り込みました。
日本への海を渡る途中、アインシュタインは1921年度のノーベル物理学賞の受賞の知らせを受けます。
受賞理由が“相対性理論”についてではなく“光電効果の発見”だったのは、ユダヤ人であるアインシュタインへの偏見や、論文が難解過ぎたこと、物理学の常識を覆す発見だったことによる過去の受賞者の批判など様々な理由があったようです。
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