今回のテーマは社会主義、共産主義の思想を世に広めたドイツ(プロイセン)出身の思想家カール・マルクスについてです。
やがて国家をも動かすほどの影響力を持った彼の思想について触れていきたいと思います。
この記事ではマルクスという人物についてまとめていきます。
マルクスの幼少
カール・マルクスはドイツ(元プロイセン王国)のトリーアという町に生まれました。
父はユダヤ人弁護士、母はオランダ出身のユダヤ教徒です。
彼の幼少期については資料が少なくあまり知られていませんが、彼が6歳の頃に母以外はプロテスタントに改宗しています。
後に母も改宗しますが、反ユダヤ的な空気が社会に現れてきたからだと推測されています。
マルクスが12歳になると地元のギムナジウム(中等教育機関)に通いはじめます。
ちょうどその頃の1830年には、フランスで7月革命が勃発。
彼が住むドイツでも自由主義の思想が広がっていきます。
1832年この流れの乗るように“ドイツ統一”を求める自由主義派の運動が強まっていきます。
彼らが訴えたドイツ統一は当時のプロイセン政府の方針とは反対の思想だったため、政府は自由主義派を弾圧します。
マルクスが入学していた学校の校長が自由主義派だったため、政府の強制捜査が入り校長が変わったり、父も議会でのスピーチが原因で監視対象になったりもしました。
彼自身はこういった反政府的な運動はしていませんでしたが、若かった彼には強烈な印象を与えたことでしょう。
マルクスの青年時代
ギムナジウムをそれなりに優秀な成績で卒業したマルクス。
1835年、18際になった彼はボン大学に入学します。
この頃になると学生に対しての政府の関しも厳しく、政治的な話をすることはおろか、仲間内で集まることも危険因子とみなされる場合がありました。
そんなマルクスの学生生活はというと、酒に溺れ騒いだ挙げ句逮捕されることが多々あったり、決闘するために拳銃を不法所持したことで警察のお世話になったりと、行儀は悪かったそうです。
その結果、学校が指定する単位の取得不足も相まってわずか1年でボン大学を退学になってしまいます。
ヘーゲル哲学との出会い
ボン大学を後にしたマルクスは父の推薦もありベルリン大学に移ります。
そこで彼はヘーゲル哲学に出会います。
“社会は絶対精神を実現するために進歩を続けていく”という思想に感銘を受け、積極的にヘーゲル哲学を学ぶ授業に出席するようになります。
この思想との出会いは、マルクスの哲学に多大な影響を与えることになっていきます。
ある程度素行は良くなったマルクスですが、金使いはかなり荒く、父から多めの仕送りをもらっているにも関わらず、借金までする始末だったそうです。
その後父からの仕送りも途絶え、借金を抱えながらの学生生活を過ごします。
本や服の代金を踏み倒すなんて当たり前で、中には訴えられたこともあったそうな…。
また面白いエピソードとして、多忙な生活を過ごしながらもエピクロスやデモクリトスの論文を書いていた彼が、論文のまとめに熱中しすぎて大学の更新手続きを忘れたことも知られています。
そのせいでベルリン大学を5年目にして除籍になったりもしたそうです。(後に正式に卒業を認められました。)
(後編へ続く…。)
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