の続き…。
小林栄先生との出会い
清作が生長(現在の生徒会長)になる頃、恩師となる人との出会いがあります。
元会津藩士であり、猪苗代高等小学校教員の小林栄先生です。
小学校を卒業するためにはいくつかの試験があり、口頭試問の試験官として審査していたのがこの小林先生でした。
小林先生の落胆と発見
戊辰戦争に勝利した、長州、薩摩、土佐出身の者が世間で活躍している中、会津からも優れた人材を送り出そうと考えていた小林先生。
小林先生の口頭試問は非常に厳しいことで有名で、半端な知識で試験に臨もうものなら、ぐうの音も出ない程のされたそうです。
小林先生は期待外れな試験結果に落胆していました。
そんな中、一際異彩を放つ子がいました。
野口清作です。
他の生徒が頭を抱えるような問題でさ、清作はたじろぐどころか楽しんでいるように見えたそうです。
清作の手と小林先生
どの質疑にも明快に答える清作でしたが、左手の火傷についての話題になると、暗く自信の無くしたように話したそうです。
小林先生は、この子こそ会津から日本へ羽ばたく人材であると確信します。
清作を自分の学校である猪苗代高等小学校に入学させ、授業料も特別に工面してくれました。
その後、小林先生は清作を色々な形で援助していくことになります。
猪苗代小学校では…
猪苗代小に入学してすぐ、清作はまたも三城潟(さんじょうがた)の“テンボー”とあだ名されます。
しかしこの三城潟の新入生が、勉学に優れとてつもない教養の持ち主であることが分かると、テンボーと馬鹿にする者は一人もいなくなりました。
清作が15歳になると、生長であったことの経験からか、彼に勉学を教わりに来る者も現れます。
清作に教わることを自慢する者さえ現れる始末だったそうです。
左手の手術
ある時アメリカから帰国した渡辺ドクトルが、会津若松に医院を開業する噂が立ちました。
しかし当時の手術は費用が高く、簡単に手術の依頼などできません。
そこで、清作の友人である秋山義次をはじめとするクラスメートや先生たちは、清作に内緒で手術代をカンパし、清作と母シカに渡しました。
こうして渡辺ドクトルの医院開業に合わせて、左手の手術を受けられるようになりました。
医師を目指す
執刀医渡辺鼎(わたなべかなえ)の手術を前に、清作は晴れやかな気分でした。
術中の激痛にも、うめき声一つ上げず耐え切ります。
左手で物を掴めるようになった清作。
彼はこの時から医師を目指す覚悟を決め、渡辺ドクトルの門を叩きます。
中学を出ていない清作にとっては無謀な挑戦だったのかもしれませんが、渡辺ドクトルは“大人でも泣くような手術に耐えたあの少年ならもしや…”と考え、医院で勉強することを特別に許されることになりました。
こうして清作は医学の世界へ足を踏み入れるのです。
続く…。
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