かつてのドイツ帝国宰相ことオットー・フォン・ビスマルク。
ドイツ帝国以前のプロイセン王国のリーダー(首相)として豪腕を奮い、「鉄血宰相」の異名を持つ人物です。
プロイセン王国首相→北ドイツ連邦首相→ドイツ帝国首相と凄まじい経歴を持っている彼ですが、その人生は波乱に満ちたものでした。
今回は、そんなドイツ帝国を成した男「ビスマルク」についてまとめていきたいと思います。
鉄血宰相の誕生
僕は心底母が憎い。
1815年、ビスマルクはプロイセンのユンカー(農業貴族)の息子として生まれました。
父のフェルディナントは寛大な性格で、ユンカーとしての生活に誇りを持ちながら生活していました。
ビスマルクは父を「尊敬できる人である。」と言葉を残しています。
立派な貴族になりなさい。
対して母親のヴィルヘルミーネは、ビスマルクを立派な貴族にするため、徹底したスパルタ教育を施しました。
ビスマルクが6歳になると、刑務所と揶揄されるほど規律が厳しいプラーマン学校に入学させられます。
彼は手紙に、
「僕の幼少期は母に台無しにされた。僕は心底母が憎い。」
とまで書き残す程でした。
荒んだ大学時代
俺に逆らうな。
プラーマン学校を卒業後、色んな学校を転々としていたビスマルク。
幼い頃からの詰め込み教育は、彼を賢くさせるには十分すぎる程でした。悪賢さも含めて…。
彼の語学における理解&咀嚼能力は絶大で、英語、ラテン語、フランス語と難なくマスター。
特に外交文書などの文章作成における多彩な表現力や比喩能力に長けていたそうです。
大学になると法学と政治学を専攻するも、彼の興味は歴史書や文学に向いていきました。
しかし彼の私生活は、酒と喧嘩に明け暮れ荒れた毎日でした。
足元まで及ぶほどのガウンを着装し、巨大な犬を連れて回っていたそうです。
あまりの素行の悪さに大学から呼び出されたときには、犬を使って脅したとも言われています。
大学卒業後
俺の将来は、プロイセン最大のゴロツキになるか、一番偉くなるかのどちらかだ。
大学卒業後は就職するも、賭け事や貴族の女性と遊びまわるなど自由に生活していました。
しかし貴族相手の女遊びにはかなりのお金が必要となります。
何せ貴族令嬢相手なのですから…。
彼はギャンブルでその資金を賄おうとしますが失敗の連続…。
多額の借金を背負うや否や、住居や仕事を投げ出し借金を踏み倒すかのように居場所を転々としていきます。
そんなビスマルクに転機が訪れたのは彼が27歳のとき。
当時働いていた職場で、キリスト教サークルの集まりに参加することになります。
彼は別に教会に行くほどの熱心なキリスト教徒でもありません。
ただ、好みの女性に出会えるかも知れないという動機がほとんどでした。
しかしこの集会が、彼を最大のゴロツキか一番の政治家かを決める転機だったのです。
下心丸出しのキリスト教集会にて…
あの人を正しき道に…。
教会の集まりで、ある一人の女性と出会いました。
彼女の名はマリー・フォン・タッデン。
マリーはビスマルクの不信仰な態度を気の毒に思い、彼を正しき信仰の道に戻るよう接してきました。
対しビスマルクはマリーに猛烈にアプローチするも、マリーは別の女性ヨハナを紹介。
それでもビスマルクはマリーにアプローチを続けるという不屈の精神でアタックしていきました。
アタックの結果、マリーの根負けというか彼の魅力に取りつかれたというか…。
お互いが恋に落ち、結婚することになります。
それと同時に、マリーの叔父の勧めによって政治の世界に足を踏み入れることになるのです。
マリーが…。
しかし幸せは長くは続きませんでした。
ビスマルクが31歳の時、マリーが病気で死去。
彼は一人残されることになります。
しかし、この後すぐにマリーの親友ヨハナと結婚することになります。
マリーの死がきっかけとなり、二人の間柄が親密になったためだと言われています。
家庭内でのビスマルクは、妻と子を愛する良き父であったそうです。
子どもも三人生まれ、家族こそが彼の心の拠り所となっていきました。
そしてここから、彼を鉄血宰相たらしめる政界への進出が始まっていくのです。
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