前回の記事では、人間が機械の部品のように過ごし個性が失われた状態で生きることを“絶望”と言いました。
ではどうすれば個性に溢れ、他の誰でもない自分を取り戻すことができるのか…。
それは実存の三段階をもって克服できるとキルケゴールは考えました。
今回はそんな彼の哲学について一歩踏み入ってみようと思います。
一段階目“美的実存”
あれも、これも。
まず彼は、あれも欲しいこれも欲しい…、ああなりたいこうなりたい…という欲求を純粋に追い求めるとどうなるのかを考えました。
しかしあれもこれも追い求めた結果、どれも中途半端になってしまい何も手に入らなくなるという結論にたどり着きました。
これが第一の絶望です。
医者にも科学者にもスポーツ選手にもなりたい!…と色々追い求めた結果、どれも中途半端になってしまうイメージってありますね。
また、欲求のままに好きなことをやった後、「一体何やってんだ…俺。」と考えてしまうのもこの美的実存による絶望です。
キルケゴールも当時の人々の様子と自分の経験から、この考え方を見出しました。
二段階目“倫理的実存”
あれか、これか。
美的実存で絶望を味わった人間は、次の段階にて倫理的実存にたどり着きます。
倫理的実存のキーワードは、“あれか、これか”と“自己の良心”です。
本来の自分になるためにやることを選ぶ。
これはやらない、これはやった方が良いなど自分と真剣に向き合い、“あれか、これか”と自ら選択するステージです。
選ぶ基準は“自己の良心”によって決まります。
ボランティア活動をしてみよう!だとか、誰かのために働こう!といった倫理に基づいた行動だと思ってください。
しかしいざ思い立ち行動してみると、数ある奉仕活動には時間や体力など制限がついて回ります。
自分自身の倫理で立てた目標も、行動できる限界を知ることで“自分の無力さに気付く”瞬間が訪れます。
これが第二の絶望です。
いわゆる挫折というやつですね、この段階を経て次なる実存に気付くといいます。
三段階目“宗教的実存”
ただ信じよ。
キルケゴールは倫理的実存と絶望の先には“宗教的実存”があると考えました。
一言でいえば“信じること”です。
あれをしなければいけない、これをしなければいけないという枠を超えて、ただ一人で神の声に従うべきだと考えました。
信仰に篤いキルケゴールならではの結論だと感じます。
本当に神の声を聞くというよりは、自分の信じるものは疑いなく突き進めというメッセージだと受け止められます。
ただキルケゴールにとっては信じるものが神だったというだけで…。
以上3つの実存の段階によって、他の誰でもない本来の自分を取り戻すことができると主張したのです。
いかがでしたでしょうかキルケゴールの実存主義。
仕事は作業化され、マスメディアの普及によって皆同じ情報を共有した時代。
誰かが消えてもまた誰かがその代わりになっていた時代を批判した一哲学者の考えでした。
この頃の哲学になると、現代に生きる我々も共感できることが多くなってきます。
遊び呆けて虚無感を感じた経験…。
何かを頑張ろうと一念発起するも挫折した経験…。
自分が信じる何かを見つけることができ、今も信じ続けて行動している人…。
中には最早諦めて誰かの代わりのような生活を送っている人もいるかもしれません。
もし自分が無個性だと感じることがあったなら、虚無感も挫折もひっくるめて何かを信じてみるのも良いのかもしれませんね。
最後にキルケゴールの名言を一つ。
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。」
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