の続き…。
ビスマルクの政界進出
ヤツは見込みがある。
ビスマルクを政界に進出させたのは、当時のプロイセン王国の政治家であり将軍であったゲルラッハでした。
タデン集会において、血気盛んなビスマルクを気に入り、政治家になってみないかと誘いました。
田舎暮らしに飽きてきたビスマルクはこれに同意。
ゲルラッハのコネによってポンメルン州の州議会議員になります。
彼の負けん気は政治の世界でも十分通用するものでした。
自由主義派を潰してやる!
王権を支持する保守派の属したビスマルクは、敵対する自由主義派に対し罵詈雑言とも取れるような弁論を繰り返しました。
相手議員たちが怒って言い返してきても、彼は新聞を読んだりそっぽを向いたりと相手にしなかったそうです。
大学時代からの「喧嘩屋オットー」の精神は、ここでも発揮されたのですね。
ダメでした。
ビスマルクの強硬的な政治姿勢とは裏腹に、敵対する勢力は勢いを増していきました。
当時圧倒的多数であった自由主義派は、ドイツやフランスなど各地で革命をもたらすほど民衆に影響を与えていました。
結局彼の自由主義打倒は叶いませんでした。
自由主義派は、1848年革命やベルリン3月革命(プロイセン王国首都)など大小様々な革命を経て、政治的な権力や立場を高めていきました。
快進撃を続けた自由主義派の次なる目標は、ドイツ統一でした。(ここから話は少し自由主義派寄りへ…。)
大ドイツ案VS小ドイツ案
このドイツ統一に向けての話合いが揉めに揉めます。
というのも、当時ドイツ周辺には表立った国家と言えるものが存在せず、39の邦国に分裂していました。
一応、ドイツ連邦なる枠組みは存在していました。
フランスやイギリスなどのが近代的な国家になっていくのに対し、これらに対抗できる力を付けるためには、軍備も兵力もまとめることができるドイツ統一が必要だったのです。
これを話合うために、フランクフルト国民議会が開催されました。
そこで考案されたのが、大ドイツ案です。
これは、ドイツ連邦からなるドイツ人地域を全てまとめてしまおうと考える案でした。
合理的かつドイツ国民の支持を得られた良案でした。
これで議会がまとまるかと思われたその時…。
ある国が異議を申し立てます。
ハンガリーはドイツ人地域じゃないんですが…。
当時オーストリアは、ドイツ人国家でありながらお隣のハンガリーなども統治しており、オーストリア=ハンガリー帝国と呼ばれていました。
大ドイツ案のまま進んでしまうと、オーストリア地域とハンガリー地域が分断されてしまい、革命や地域の独立など国家崩壊が懸念されます。
よってオーストリア=ハンガリー帝国は、大ドイツ案に断固反対の姿勢をとりました。
妥協案として、オーストリア=ハンガリー帝国が統一する全ての地域を含めた、中欧帝国案も考案されます。
しかしドイツ人とは関係もない地域を併合してしまうため、国家の内部崩壊の危険を考え却下。
しびれを切らしたプロイセンは、オーストリア地域を除外した小ドイツ案を主張します。
そうなってしまうと、実質的に統一ドイツ周辺の支配権を握ることのできないオーストリアはまたもや猛反対。
話は平行線のまま、時間だけが進んでいくことになります…。
革命の鎮圧とフランクフルト国民議会の解散
妻はもう吊るされてしまっただろうか…。
ドイツ統一の話が停滞する一方、各地で起きていた革命が徐々に鎮圧されていきます。
プロイセン王国の保守派も力を取り戻し、1848年11月には王国の首都ベルリンにヴランゲル将軍率いるアンチ革命勢力が進軍。
革命勢力に
「門をくぐったらお前の妻の首を吊る」
と脅されてもなお進軍の足を止めず、革命を完全に鎮圧させた逸話が残っています。
王都の門をくぐるとき彼は、
「妻はもう吊るされてしまっただろうか。」
と副官に漏らしていたそうです。
その翌年6月には、フランクフルト国民議会が強制解散。
話し合いによるドイツ統一の夢は、一歩遠のいてしまいました。
(ヴランゲル将軍の妻は無事でした。)
外交官ビスマルク
オーストリア潰すぞ
プロイセンによるドイツ統一が難航する中、ビスマルクは外交官に選ばれます。
彼に与えられた使命は、プロイセン王国の地位をオーストリア=ハンガリー帝国の地位と同等以上に押し上げることでした。
彼は、ドイツ連邦議会へ外交官として参加。
喧嘩屋オットーが、実質オーストリアが支配するドイツ連邦議会に殴り込みにいくのです。
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