今回は、どういうわけか生徒たちからの反応が良かった「サラエボ事件」をまとめていこうと思います。
サラエボ事件といえば、第一次世界大戦のきっかけとなった“オーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年によって殺害された事件”ですね。
自分も中学生当時は、オーストリアってどこだよ!サラエボなのにセルビア人ってややこしいわ!
と怒り狂っていましたが、後々調べていくとまた面白うございますもので…。
それではいざ本題へ。
オーストリア皇帝ヨーゼフの跡継ぎ問題
ハプスブルク家の血を絶やしてはならん!!
当時のオーストリア皇帝ヨーゼフ一世は、かつてヨーロッパでの覇権を握っていたハプスブルク家の血統を絶やすまいと、自分の息子を次期皇帝にしようと考えていました。
親父とは気が合わん。それより可愛い子探すぞ!
しかしその次期皇帝候補のルドルフは、ヨーゼフとの政治的な意見に真っ向から反対するハネッ返り者でした。
あと女好き。
(無念!)
しかし、そんなルドルフが、恋人とベッドの上で死んでしまうという事件が起こってしまいます。
(他殺とも自殺とも言われ、真相は明らかになっていません。)
ハプスブルク家の血を絶やしてはならん!(二度目)
息子亡き今、不本意ながらヨーゼフの弟を跡継ぎ候補に考えます。
…しかし、有力候補であった弟のルートヴィヒは高齢のため辞退。
老い先の短いヨーゼフは、いよいよ後が無くなってきました。
フェルディナントとゾフィ
私が跡継ぎに…?良いですが、条件があります
ルートヴィヒが皇帝候補を辞退する代わりに、ルートヴィヒの息子のフェルディナントに白羽の矢が立ちました。
彼はこれを受け入れます。
しかし、ある条件を出しました。
その条件とは、恋人であるゾフィを妻とすることでした。
皇太子に決まったフェルディナントの周りには、噂を聞きつけた貴族の女性が押し寄せます。
しかしフェルディナントは、自分が恋し、今まで支えてきてくれたゾフィ以外に目を移すことはありませんでした。
それほどゾフィを愛し、生涯の妻にすると固く誓っていたのです。
愚か者め、そんなこと認めるわけがなかろう
ハプスブルク家の血を高貴なものとして後世に残したいヨーゼフはこれに猛反対。
ゾフィは皇族ではない上、身分の高くない女官の一人だったため、そのような者を皇女にしたくなかったのです。
ヨーゼフ一世はフェルディナントに対し、「皇帝の座とゾフィ、どちらを取るか?」という決断を迫りました。
私は両方取ります
フェルディナントは皇帝の座も妻も両方譲る気はないと毅然として答えたそうです。
ヨーゼフ。このままでは跡継ぎがいなくなってしまいますよ?
この対立を鎮めてくれたのが、フェルディナントの継母である、マリア・テレジアでした。
ヨーゼフともフェルディナントとも、言うなればハプスブルク家全体から敬愛されていたテレジア。
彼女は、二人の結婚を認めるよう提言し、ヨーゼフがそれを渋々認める形で事が収まります。
結婚記念日=1900年6月28日
ゾフィと共に公的な場に立つことは許さん!
結婚を認める代わりに、ゾフィに対して皇族としての特権を与えることは禁止されました。
さらにヨーゼフは、二人の間の子どもを皇族にすることも許しませんでした。
1900年6月28日、何はともあれ二人はささやかなながら結婚式を挙げ、めでたく夫婦になることができました。
とはいえ、皇族特権を破棄されたゾフィに対する周りからの対応は冷ややかでした。
フェルディナントは、ヨーゼフさえ死んでしまえばゾフィへ皇族特権を適用できると考えていたため、時が来るまでは今の状況の中で生活していました。
元気いっぱい!
しかし高齢にもかかわらず一向に死ぬ気配が無いヨーゼフ。
結婚してから13年もの間、肩身の狭い思いをしながら生活していたゾフィ達ですが、14年目になると転機が訪れます。
サラエボへの視察の許可
1914年の6月に、現在のボスニアの首都サラエボへ皇太子として視察をする予定が入っていました。
その日は丁度28日。
つまりフェルディナントとゾフィの結婚記念日でもあったため、今まで禁じられてきた二人揃っての視察(軍事演習)が許されることになりました。
二人で世間へ顔を出すということは、多くの人に二人がオーストリア皇太子夫妻であると認知してもらうチャンスです。
何とオープンカーでの凱旋する許可もおり、二人の物語はここから始まろうとしているのです。
・・・さて、このサラエボ視察がどのようになっていくのか。
次回へ続きます。↓
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