宗教改革の発端はレオ10世の“贖宥(しょくゆう)状”の発行からはじまりました。
贖宥状(免罪符)は、お金を払ってこの証書を手に入れれば、犯した罪の償いが軽減されるという触れ込みで庶民へと広まりました。
贖宥状を発行した理由は、サン・ピエトロ大聖堂の改修工事の資金不足が大きな原因と言われています。
聖堂の改修工事目的なら、なぜ信者からのお布施を集めなかったのでしょうか?
それはレオ10世がルネサンス芸術に重きを置く人物だったからです。
レオ10世の父は、ルネサンス芸術の水先案内人であり豪華王と呼ばれた、父のロレンツォ・デ・メディチです。
ロレンツォ・デ・メディチは、フィレンツェの公金を芸術の復興に流用していました。
特に美術に関心の高かったレオ10世も父のように芸術分野に公金を費やしていました。
その結果、お布施以外にも贖宥状でお金が集めなければならなくなったと考えられています。
ルターによる抗議
贖宥は神のみが行える。
贖宥状が広まっていく中で、それに異を唱えた人物がいました。
神学教授の“マルティン・ルター”です。
贖宥状が発売されからおよそ2年が経った頃、ルターは教会の壁面に“贖宥状に対する95か条の論題”を貼り出しました。
論題では、“贖宥は神のみが可能であり、教会が判断できるものではない”と主張しました。
この論題は口伝えに広まっていき、聖職者たちの堕落や贅沢に疑問を抱いていた民衆を強く刺激しました。
これによって宗教改革の火種は大きくなっていったのです。
ルターの追放
教会を批難するな!
事態を重く受け止めた神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、ルターに教会の非難をやめるよう迫ります。
ルターはこの申し出を拒否。
その結果カール5世によってルターの市民権は剥奪され、法の保護外に追放されてしまうのです。
法の外に追いやられたことで、ルターを殺しても罪に問われることはなくなりました。
ルターの保護
ルター市民権の剥奪は、遠回しに彼の死を予見させるものでした。
カール5世は、何かに乗じてルターを亡き者にするつもりだったのかもしれません。
その危機を救ったのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世でした。
彼はルターの考えに賛同していたフリードリヒ3世ですが、それ以上にカール5世の勢力拡大を恐れていました。
ルターが起こした宗教改革の火種を、どうにか利用できないかと考えた末の保護でした。
こうしてルターは、フリードリヒ3世の居城であるヴァルトブルク城へ匿われることになりました。
マルティン・ルターの宗教改革②へ続く…。
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