ソクラテス(紀元前470~前399)は石工の父と産婆の母の間に生まれました。
若い頃から勇猛果敢で、兵士として武功を挙げていたこともあったとされていますが、一般的に知られている彼のイメージは哲学的な側面が強いです。
今回の記事では、西洋哲学の祖と言われるソクラテスについて触れていこうと思います。
古代ギリシャの弁論術
当時のアテナイでは論争が盛んで、男性市民は弁論術を身につけ相手との論争に勝利することが出世の手段にもなっていました。
オリンピックは人間の身体を競う大規模な大会ですが、それと同じように市民が雄弁を競う弁論大会が開催されるほど市民の間では弁論術が人気でした。
そんな中、お金を受けとって弁論術を教えるソフィスト(意味:賢い者)たちが現れます。
ソフィストたちは、いかに自分の主張を論理で通すかに特化し、その論法は様々でした。
ソクラテスも弁論術を教えていましたが、彼がソフィストだったのかどうかは意見が分かれます。
というのも彼自身が書き残した文献が一つもないからです。
後に彼の弟子であるプラトンが著する“ソクラテスの弁明”から解釈するに、少なくともソクラテスは、お金のあるなしに関係なく自身と弁論する機会を与えたとされています。
そういう意味ではお金をもらって弁論術を教えるソフィストとは違うと考える人もいます。
ソクラテスの弁論術
そんなソクラテスの弁論術は対話を重んじていました。
相手に様々な質問をして、その答えを論破していき核心に迫っていく対話術です。
例えば…。
嘘をつく奴は悪い奴だ!
本当にそうなのか…?
「例えば友人がその場にあった包丁で自殺を考えているとしよう。その時お前はその包丁を隠した。友人に包丁の在りかを聞かれ、お前は知らないと嘘をついた。結果的に友人は助かることとになったが、その時お前は悪い奴だと言い切れるのか?」
うう・・・。
といったように相手との対話を通じて過ちを正していくことがソクラテス手法でした。
不知の自覚
ソクラテスがこの弁論術を通して教えようとしたことは“不知の自覚”です。
古代ギリシャでは神だけが知者であると考えられていました。
神と比較すれば人間は無知に等しく、不知であるがために知を探求すると主張したのです。
「もし何でも知っている人間がいるのであれば、戦争や混乱が起こるわけがない。この不安な日々の中で、自分の人生について見つめなおす機会を与えるべきだ。」
とソクラテスは考えたのです。
彼は、これ以降の人生を人々との対話に費やすようになっていくのです。
ソクラテスの日常
ソクラテスの日常は粗末な衣服を身にまとい、裸足で街中を歩いたと言われています。
そして人が行き交う場所で道ゆく人をつかまえ、問答を繰り広げるのです。
ソクラテスは問答によって不知を自覚させようとしました。
相手が「これだ!」と信じている論理を否定するには、相手の論を一笑に付す必要も出てきます。
中には感情的になりソクラテスに暴力を振るう人も出てくることがありましたが、彼は決して抵抗はしませんでした。
問答を繰り返し、夜になると帰る。
そんな日々を送っていました。
ソクラテスの死
生は生きるに値し自他を吟味しない人生は生きるに値しない。
あらゆる人を哲学的に論破していったこともあり、権力者からも良く思われていなかったソクラテス。
前399年、彼はその教えによってアテナイの人々を惑わした罪によって裁判にかけられました。
彼は
「自他を吟味しない人生は生きるに値しない」
と主張し無実を訴えましたが、死刑を宣告されました。
ソクラテスには刑から逃げるチャンスもあったとされていますが、法の裁きを遵守し死刑を受け入れることを選びます。
ドクニンジン飲まされて処刑されることになりますが、死の直前まで友人や信奉者と議論をしていたとされています。
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