の続き…。
医学会を駆け抜ける野口の功績
1904年、ロックフェラー所長に就任したフレクスナー所長の推薦もあり、一等助手として迎えられた野口。
研究者としての熱も冷めることなく、文字通り寝る間も惜しんで研究に没頭し数々の論文をかき上げます。
野口はあらゆる試行パターンを完璧に実行でき、スピードも驚異的であったため“マシーン”と呼ばれたそうです。
1911年、当時(現在でも)梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した例はありませんでしたが、野口はこれの純粋培養に成功と発表。
医学界での注目の的となります。(この頃にメリー・ダージスと結婚)
その後も、小児麻痺、狂犬病、トラホーム、結核などの研究で成果を上げ、野口は欧州各国への講演の依頼が殺到しました。(現在では研究のいくつかは否定されています。)
母の手紙
1915年、世界で活躍する野口は日本政府からの恩賜賞を受け取ることになります。
研究と講演で僅かな時間も無い野口の代わりに、血脇先生が代理として受け取ることになります。
恩賜賞で受け取る予定だった賞金は、全て小林先生の元へ送られることになりました。
そんな野口絶頂の最中、母の写真が同封された手紙が野口の元に届きます。
やつれ、疲れ切った母の写真を見た野口は、今まで送られてきた母からの手紙を見る暇もなかった自分を悔いました。
「早く来てくだされ」
シカが幼い頃に覚えた文字を思い出しながら書いた手紙を読み、すぐ日本に帰る決意をしました。
母に会うのは最後
かつての仲間だった星 一(ほし はじめ)らの力を借り帰国した野口。
各大臣や医学会の権威たちとの接見などもあり、故郷にすぐに帰ることはできませんでした。
帰国後、母から貰った手紙には
「世話になった方に挨拶してから家に帰りなさい」
と野口英世の母らしい言葉が書かれていました。
野口もそのようにし各人各家をまわり終えた後、故郷の実家に足を運びました。
かれこれ15年振りの帰郷でした。
帰郷に際し、寺にお参りしたり母を東京に案内したりと、その時にしかできないことを楽しみました。
(その時々は写真に収めてあるものがいくつかあるので、興味が湧いた時に見てみることをオススメします。↓)
再びロックフェラー研究所へ戻る
帰国しおよそ二か月が過ぎた頃、野口は再渡米しロックフェラー研究所に戻ります。
次に研究する難題は、欧米を蝕む伝染病“黄熱病”です。
蚊を媒介とすることが分かっている黄熱病でしたが、肝心の病原体が分かっていませんでした。
野口はこの病気の正体を突き止めるために、エクアドルのグアヤキルに向かうことになるのです。
続く…。
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