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【偉人の横顔③】厳しい顔の裏に見える親友への想い 〜大久保利通〜

歴史

この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。

 

 

本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。

 

記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。

 

今回のテーマは「大久保利通」です。

 

 

西南戦争で西郷を追い詰めた冷血漢

大久保利通(1830~1878年)

 

大久保利通といえば、岩倉使節団として海外を視察し、「日本も、欧米に並ぶ国力を身につけるべし」と考え、明治維新を指導していった人物の一人として有名です。

 

それ以前は、同じ土佐藩出身の西郷隆盛とともに幕府政権を打ち倒した者としても知られるも、西南戦争では政府側のトップとして、戦友だった西郷隆盛を死に追いやった冷酷な指導者とも考えられています。

 

そんな独裁的な印象のある大久保利通ですが、実は西郷を常にリスペクトし、最後まで信じ抜こうとした義理堅い一面がありました。

 

では、そんな大久保と西郷との間には、どのようなすれ違いが起こってしまったのでしょう。

 

以下に彼の生い立ちからまとめていきます。

 

 

死を覚悟した西郷を救う

薩摩藩士時代の大久保(明治元年頃)

 

大久保利通は、薩摩藩の貧しい武士の子として生まれました。

 

同じ薩摩出身の西郷隆盛とも幼馴染で、3歳年上だった西郷は兄のような存在でした。

 

島津家が薩摩11代藩主となると、西郷は島津斉彬(しまずなりあきら)に評価され、側近として京都で活躍し始めます。

 

1854年、西郷が27歳の頃、薩摩藩の役人として提出した藩政に関わる意見書が認められたことで斉彬の江戸行きに付き添うことが許されます。

 

しかしこのとき、大老となった井伊直弼が幕府に反対する人を弾圧する「安政の大獄」が行われます。

 

さらに藩主の斉彬が急死したことで情勢が大きく変わり、西郷は一転して幕府から追われる身となってしまうのです。

 

尊敬していた斉彬の死に絶望した西郷は後を追って死のうとしますが、尊皇攘夷派の僧侶僧である月照(げっしょう)に諭されたことで思いとどまります。

 

月照(1813~1858)

 

二人は京都を脱出し、土浦藩や水戸藩の支援も得ながら“安政の大獄”から逃げようとしましたが、追いつめられた二人は、鹿児島の錦江湾(きんこうわん)で入水自殺を試みます。

 

このとき、月照は助かりませんでしたが、西郷は救出が間に合い一命を取りとめます。

 

その現場に駆けつけた大久保利通は、西郷にこう言います。

 

月照があの世に逝き、あなた一人が生き残ったのは、決して偶然ではありません。天が国家のために力を尽くさせようとしているのです

 

この言葉に心を打たれたであろう西郷は、幕府の目からかくすために、奄美大島に島流しとされるも、腐らずに生き直すことを決意しています。

 

西郷が表舞台から降りた後、大久保は斉彬の弟である島津久光(ひさみつ)に気に入られ、側近に抜擢されます。

 

島津久光(1817~1887年)

 

そんな大久保は久光のもとで働きながらも、「欧米諸国に引けを取らない日本を創るためには、島流にされている西郷を薩摩藩に呼び戻す必要がある」と西郷復活のチャンスを虎視眈々と狙っていました。

 

弱体化する幕府を刷新し、軍事力のある薩摩藩がリーダーシップをとり、藩の代表者が朝廷から命令をうけるかたちで幕府を改革しようと考えたのです。

 

これは亡き藩主斉彬の改革計画でもあり、実現するには西郷の力が必要だと確信していたのです。

 

大久保は「西郷を島から戻してください」と久光に何度も訴え、ようやく願いが聞き入れられることになります。

 

しかし、島から帰って来た西郷はこの上京計画について、久光の目の前でこう言い放ちます。 

 

あなたのような田舎者では無理でしょう

 

はっきりとものを言うタイプの西郷でしたが、これには大久保も青ざめたことでしょう。

 

結局久光との折り合いはつかず、西郷は再び島流しになり、大久保はこの混乱の責任をとるかたちで処罰されてしまいます。

 

それでも大久保は、西郷とともにこの日本を変るという固い決意から、西郷を呼び戻すよう願い出ています。

 

それだけ大久保は西郷の能力を評価していたのです。

 

ちなみに西郷は、大久保との関係のついてこう述べています。

 

たとえば俺(西郷)は、古い大きな家を壊し、新しい家をつくるのが得意だ。しかし、内部の細々したことは苦手だ。一蔵(大久保利通の青年期の名前)は内部のあらゆることを、丹念につくり出す。その才能には、到底俺はかなわない。しかし、またこの家を壊すときがあれば、俺の方が役に立つ

 

力の西郷、技術の大久保といったところでしょうか。

 

得意なことが全く異なる二人だからこそ、お互いをよく理解し、討幕と新政府の樹立を成し遂げられたのでしょう。

 

そんな良き理解者だった二人ですが、あるときすれ違いが生じます。

 

そのきっかけは、征韓論を巡る政治的対立でした。

 

明治時代が始まると、大久保は岩倉使節団の一員としてアメリカとヨーロッパを視察。

 

岩倉使節団(1872年)

 

日本と欧米との圧倒的な差にショックを受けた大久保は、早急に日本の近代化に取り掛からないと、列強との国際競走から取り残されてしまうと考えました。

 

ところが帰国してみると、政府は「韓国に攻め込むか否か」と盛り上がっているではありませんか。

 

あろうことか、その中心となっていたのが西郷隆盛でした。

 

大久保からすれば、日本を近代化させるべく技術革新を急ぎたいところです。

 

一方、留守を預かっていた西郷からすれば、士族(元武士)の不満が頂点に達し、いかにコントロールするかを迫られているところでした。

 

明治の世になり武士の活躍の場がなくなったこともあり、その力を持て余すなら武力をもって韓国に開国させるべきという風潮が強まっていたのです。

 

二人の意見は平行線をたどり、西郷はとうとう明治政府から去ることに……。

 

大久保は韓国攻めの計画を白紙に戻し、国力を戦争ではなく、日本を近代化させるために使う政策を実行していきます。

 

しかし、それでは武士たちの不満は収まりません。

 

西郷は後に、そういった武士たちに担がれて政府対して反乱を起こすことになります。

 

これがいわゆる“西南戦争”とよばれるこの戦いです。

 

この戦いで大久保は、容赦なく西郷を追いつめたという印象がありますが、実は西郷が関わっていることは知りませんでした。

 

知らなかったというより、そう思い込んでいたというのが正しいかもしれません。

 

大久保の側近らが言うところでは、大久保は「西郷はそんな男じゃない」と言って聞かなかったそうです。

 

後に西郷が敵方として戦争に加わっていることが確定すすると大久保は「そうであったか……」と漏らし、人にはめったに見せない涙を見せました。

 

戦争末期に西郷が自害したことを知ると、大久保は号泣し、顔を柱にぶつけながらも家の中をグルグル回ったと言われています。

 

きっと、後の強き日本を作るために、西郷の命だけは助けようと考えていたのでしょう。

 

幼い頃から共に過ごしてきた間柄、それだけ西郷の能力を評価していたことが分かります。

 

 

近代化のためにはお金を惜しまなかった

そんな大久保ですが、西南戦争に敗れた西郷が自害してから、およそ4カ月後の1878年5月14日に不運にも命を落とします。

 

大久保がいつものように出勤していると、政府に不安を持つ者たちから襲撃を受け、全身に16カ所もの傷を負わされそのまま死去してまうのです。

 

暗殺者たちが持っていた紙には、政治への不満がつづられており、中には大久保に対して「税金のムダづかいをしている」という批判もありました。

 

しかしこれは検討違いであり、大久保は税金のムダづかいどころか、国家の公共事業に自分の財産を惜しみなく投じていました。

 

富岡製糸場などの官営工場の設立に尽力し、殖産興業やインフラ整備など富国強兵に励んだことが明らかになります。

 

大久保は日本が短期間で欧米各国と肩を並べるまでに発展する基盤を作っていたのです。

 

亡き後は財産ではなく借金を残しているほどで、死後長らく誤解され続けた人物だったのです。

 

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