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【前回記事】

  

  

ジョサイア・ウェッジウッドの生い立ち

ジョサイア・ウェッジウッド(1730~1795年)

  

ジョサイア・ウェッジウッドはイギリスの歴史的な陶芸家・事業家で、その名の通り『WEDGEWOOD』を創設した人物です。

  

1730年にバーズレムで代々陶器に関わってきたウェッジウッド家の末子(13人目)として生まれました。

   

幼い頃から勉強が好きで、学校でも優秀な子として先生からの評判も良かったですが、父を早くに亡くしたことから9歳の頃に小学校を辞めてしまいます。

 

その後は家業を助ける見習い陶工として兄のもとで働くとになります。

 

ジョサイアが12歳になったころ町に天然痘が蔓延し、彼もこの病から逃れることができませんでした。

 

幸い一命をとりとめたものの右足に後遺症が残ってしまい、兄の工場手伝いも満足にこなすことができなくなってしまいます。

  

それでも彼はめげることなく陶工とうしての役目を果たそうとし、自分の代わりに職人を雇って器を作るようになります。

 

空いた時間では陶器に関する書物を読み漁り、焼き物に関する知識を深めていきました。

 

1749年、徒弟見習いの修了とともに兄トーマスと共同で事業を行おうと提案しましたが、これを拒否されてしまいます。

 

仕方なく手伝いとして働きましたが、やがて兄のもとを去り、陶器の名門で知られていたトーマス・ウィールドンの工房を訪れました。

 

ウィールドンはジョサイアの焼き物に対する熱意と豊富な知識に才能を見出し、快く彼を受け入れることにします。

 

ここでジョサイアは陶工としての技術だけではなく、工房の運営や職人の育成についても学んでいきます。

 

そして何より、ここではたくさんの書物に触れることができ、焼き物に関する科学的な知識だけでなく、歴史や哲学など彼の人生に大きく影響を与えたであろう知識を吸収していきました。

 

充実していた日々を送っていたジョサイアでしたが、あるとき天然痘の後遺症が悪化したことから数ヶ月の療養を余儀なくされてしまいます。

 

このとき彼は、知的で聡明な一つ年下の若い医師と出会います。

 

その医師の名はエラズマス・ダーウィン

 

エラズマス・ダーウィン(1731~1802)

 

生涯にわたる友であり、子や孫の代まで良い関係を築くきっかけとなった人物です。

 

 

アイビー・ハウス工場

病状が良くなったジョサイアは、エラズマスの助言もあったことから自らの工房を開くことを決めます。

 

1759年には、叔父や兄のサポートを受けながら、バーズレムのアイビー・ハウス工場を借りる形で操業を開始。

 

アイビー・ハウス

 

これによってウェッジウッド社が設立され、事業家として製陶業界に足を踏み入れることになるのです。

 

この工房で彼は、それまで得た知識と磨いた技術を存分に発揮していきます。

 

まず、彼は鉛釉(なまりの成分が入った釉薬)による着色陶器の焼成とクリーム色の陶器の改良を行いました。

 

後にカリフラワー・ウェアと呼ばれる独自の陶器を完成させました。

 

1762年頃には、当時最新の技術だった銅板転写を工場に取り入れるためリバプールへ視察に訪れていました。

 

視察中、彼はまたしても天然痘の後遺症に悩まされ、膝の具合を鑑みて宿で療養を余儀なくされてしまいます。

 

診察した医師がジョサイアの素性を知ると、きっと気が合うだろうととある人物を紹介してくれました。

 

それは実業家のトーマス・ベントレーでした。

  

トーマス・ベントレー(1731~1780年)

  

彼は名の知れた商人として、イギリスだけでなく、ヨーロッパ大陸を往来しており、古典や美術などに精通した文化人として活躍していました。

  

エラズマス同様、ベントレーもジョサイアの紳士的で仕事にひたむきな姿を気に入り、互いに信頼し合う仲になっていきます。

 

 そうこうしているうちに膝の状態が良くなったジョサイアは、自らの工房に戻った後に何をするべきかを考えました。

 

この頃、イギリス各地ではインフラ整備が盛んに行われていましたが、ジョサイアの拠点周りはそういったものは進んでいませんでした。

 

道が整備されれば人の行き来が楽になって町や村の活性化に繋がる上、でこぼこの道や険しい川下りの中で工場の製品が壊れてしまうことも少なくなると考えてのことでした。

 

町義の結果では、有料道路ということが条件でしたが、それでも自分の行動だけでなく他の産業への経済効果があることは明白でした。

 

1763年には各主要都市への有料道路建設案が可決され、陸路の開拓と同時に運河の開通事業にも着手しました。

 

トレント河とマーシー河150kmに及ぶ57ヶ所の岩場が取り除かれ、1777年にはトレント・マーシー運河が開通することになります。

 

これによって、あらゆる物資の運搬コストが10分の1にまで削減されたそうです。

 

 

サラとの結婚と工房の移転

サラ・ウェッジウッド(1734~1815年)

 

そんなインフラ事業に取り組んでいる中、ジョサイアは遠縁の資産家リチャード・ウェッジウッドの娘サラと結婚します。

 

サラは聡明で魅力的であると同時にジョサイアの良き理解者で、女性としてどのような製品が求められているかなどのアドバイスをしてくれました。

 

彼女の意見も取り入れ、男女問わず要望に応えるアイビー・ハウスは、仕事が軌道に乗っていくにつれて向上が手狭になっていきます。

 

ジョサイアは工場をアイビー・ハウスと同じバーズレム地区ブリック・ハウスに移転することにしました。

 

ブリック・ハウス

 

ブリック・ハウスでは、型形成を取り入れて大量生産を可能にし、安価な価格の陶器をたくさんの家庭で使ってもらえるような製品の研究を進めました。

 

またこのとき、ロンドンにショールームを設置するなど、当時では先進的なプロモーション戦略にチャレンジしていました。

 

ショールームでは、カリフラワー・ウェアの製造技術をさらに改良したクリーム色の陶器を展示していました。

 

こういった取り組みは功を奏し、ウェッジウッドは大きな転換点を迎えることになります。

 

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