この記事は、著書「絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検」を参考とした記事を書いていこうと思います。
教科書や資料集に載っているような日本史の史料をについて、なぜそのような絵がや分が書かれたのかについてまとめていきます。
史料から見える歴史の裏側を知ると、思わず「へ〜」と言いたくなる学びがあり、今の時代を生きるヒントが見つかるかもしれません。
今回取り上げるテーマは「二日町村傘連番状」です。
二日町村傘連番状
今回の紹介する歴史史料は、“傘連判状(からかされんぱんじょう)”です。
多人数での契約や訴状の際に用いる文書形式の一つで、立場の差や責任者を明示しない日本独特の契約書です。
見出しとして紹介した連判状は、宝暦六年(1756年)の群上一揆の渦中、二日町の農民達が団結を誓って署名したものです。
郡上一揆は、宝暦四年(1754年)の年貢増徴をきっかけに起こった農民による反対運動です。
藩主金森頼錦(かなもりよりかね)をトップとする郡上藩は宝暦四年、財政雅を打開する策として、年貢を定額の定免制からその年の穫れ高に応じた検見取法(けみどりほう)に改めるとしました。
さらに役人に領内を視察させ、新田にも課税することにしました。
藩が財政難に陥ったきっかけは、藩主の頼錦が幕府の奏書番に任命されたことで出費が多くなったととが挙げられます。
奏書番は、大名や旗本が将軍に謁見する際、進物や下賜物を管理したり、時には将軍に代わって式の参列を行うこともある役職のことです。
出世コースに乗る一方、役を務めるために多額の出費が伴ったため、増税を行ったというわけです。
これに反発した百姓たちは、藩庁に対して今回の取り決めの撤回を強訴。
南宮神社に集まった農民たちが傘連判状を作成し、徒党を組んで郡上八幡城下に押しかけたのです。
その人数はなんと1,000名に達したといいます。
そこで藩庁は検見取法の中止を約束し、百姓たちが提出した十六ヵ条の嘆願書を江戸の藩邸へ送ることを約束しました。
しかし、これで騒動が収まることはありませんでした。
嘆願書を江戸に送った翌年、 郡上藩は幕府の勘定奉行である大橋親義らに働きかけ、幕府の了解を取り付けたうえで村の庄屋たちを呼びつけました。
そして徒党や強訴行為を厳しく叱りつけ、検見取法の実施を宣言したのです。
もちろん百姓たちは大反発。
再び傘連判状を作成し、結束から外れるものはいないという固い団結を誓い、総代40人が江戸藩席へ出訴しました。
しかし、彼らは藩邸に監禁されてしまいます。
この間に郡上藩の役人たちは百姓の切り崩しを図りました。
富農が次々と寝返り、やがて大半が固い結束から脱落してしまいます。
危機感を抱いた百姓たちは、江戸へ出て直訴しましたが、訴えは黙殺されます。
それどころか、首謀者とされていた気良村甚助を捕縛し、吟味もしないうちに斬首しました。
これに激怒した百姓たちは藩の足軽たちと乱闘し、再び江戸へ出て江戸北町奉行の依田政次に直訴します。
しかしそれも受理されなかったため、今度は目安箱に訴状を差し入れました。
これによりようやく訴えが幕府に取り上げられ、郡上藩飛び地の越前国大野郡石徹白村での紛争も相まって、郡上藩主の金森家は「治政よろしからず」として御家取り潰しとなったのです。
もちろん百姓側もタダでは済まず、十三名が処刑され、獄死した者も十数名におよびました。
この大規模な一揆の責任問題は幕府首脳部にもおよび、金森頼錦の縁者であった老中の本多正珍は運塞を申しつけられ、同じく頼錦の縁者である若年寄の(老中に次ぐ重役)本多忠央と年貢増徴に関わった勘定奉行の大橋親義らは改易となりました。
この一件を目の当たりにした幕府は、年貢の増長による幕藩体制の立て直しは難しいと考え、商人たちから税を徴収する重商主義政策への転換が図られます。
これがいわゆる老中田沼意次による田沼政治の発端になったと言われています。
傘連判状の発端と一揆
傘連判状のような形式はもともと、中世の武家によって使用されていたものです。
中世では惣村(自治的村落)の農民たちも盛んに一揆を結び、団結して領主や高利貸しなどに年貢や借金の減免を求めたり、田畑の耕作を放棄して一斉に逃亡(逃散)したりすることがありました。
十五世紀前半になると、幕府に徳政令(借金の帳消し)を求めて武力蜂起するようになり、これが一般に土一揆と呼ばれています。
戦国時代になると、下剋上の風潮や戦争経験な百姓が増えたこともあり、村の武装蜂起は一層過激になっていきました。
しかし、豊臣秀吉が天下人になると、刀狩や喧嘩停止令などの蜂起を未然に防ぐ措置により百姓の武力行使は厳しく禁じられ、島原天草一揆(将軍徳川家光の時代)を最後に、武力を行使する百姓一揆は消滅しました。
以後は、島原天草一揆の経験を経て、領主層は激しい騒乱を起こさせないことが仁政としての名目を保つうえで重要だと認識するようになります。
百姓側も暴力を振るわないことが仁政の回復を求めるために必要だと認識するようになり、領主と百姓の間に相互的な関係意識が形成されたと考えられています。
また、日本近世において「一揆」という言葉はほとんど使われていないそうで、「百姓一揆」という言葉は後世の人々が呼び習わしたものというのが通説です。
当時、「徒党」「強訴」「逃散」と呼ばれていたものがいわゆる「百姓一揆」にあたります。
「徒党」は、百姓が多数で連判状や起請文で団結を誓い合うのこと。
「強訴」は、徒党のうえで大挙して領主や村役人のもとに押しかけて請願する行為のこと。
「逃散」は、田畑を捨ててみんなで村から退去すること。
といったように分類分けがされていたようです。
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