歴史雑学

【日本史料のウラ話⑥】板垣退助暗殺未遂

歴史

 

この記事は、著書絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検を参考とした記事を書いていこうと思います。

 

絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検

 

教科書や資料集に載っているような日本史の史料をについて、なぜそのような絵がや分が書かれたのかについてまとめていきます。

 

史料から見える歴史の裏側を知ると、思わず「へ〜」と言いたくなる学びがあり、今の時代を生きるヒントが見つかるかもしれません。

  

今回取り上げるテーマは「板垣退助暗殺未遂」です。

 

 

板垣退助遭難事件(岐阜遭難事件)

画 歌川豊宣「板垣君遭難之図」 (1882年)

  

今回紹介するのは「板垣死すとも自由は死せず」のフレーズでお馴染み、板垣退助の暗殺未遂事件を描いた錦絵「板垣退助遭難事件」です。

  

日本の政治を語るうえで欠くことのできないこの事件。

  

本記事にて、この暗殺未遂の経緯についてまとめていきたいと思います。

  

「自由は死せず」という言葉との関連性もあり、板垣退助といえば自由民権運動のリーダーとしてよく知られています。

 

明治六年(1837年)頃板垣は、武力をもって韓国を開国させようとする“征韓論”を持つ者として、その反征韓論者らと意見をぶつけ合っていまいした。

 

板垣らと対立していたのは岩倉具視や大久保利通らで、今の武力で韓国を征服しようとするのは危険と考えていました。

 

それよりも大久保らは、国内の体制を安定させることを最優先と考えたのです。

 

この論争の中で板垣らは、後藤象二郎や江藤新平らとともに「国会を開設して議会政治をせよ」という“民撰議院設立の建白書”を政府に突きつけ、立志社を組織しし、自由民権思想を一般に広めていった。

 

明治十三年(1880年)からは国会期成同盟を結成し、国会開設運動を大々的に展開。

 

その結果、政府が「十年以内に国会を開く」という直喩を発したことで、板垣は日本初の政党“自由党”を創設して総理(党首)に就任します。

 

そして国会の開設に備えて支持基盤を拡大すべく、各地で演説会を開くようになりました。

 

さて、事件に近づくこと明治十五年(1882年)、板垣は東海道をくだるように行脚していました。

 

板垣退助(1882年ごろ撮影)

 

同年4月6日、金華山のふもとにある神道中教院にて自由党大懇親会が開かれました。

 

この席で板垣は、熱狂する大観衆を前に二時間も熱弁を振るいました。

 

ただ、当日は長時間の講演からか体調が思わしくなく、懇親会終了前に席を立ち、履き物を履いて外へ踏み出した。

 

そこへ突然「国賊!」という叫びとともに男が飛び出し、板垣の右胸目掛けて短刀を突きつけたのです。 

 

不意のことに驚いた板垣でしたが、「何をするか!」と一喝し、相手の心臓をめがけて肘を入れたと言われています。

 

若い頃に板垣は、本山団蔵から小具足術を学んでおり、襲撃された際に反射的に技が出たそうです。 

 

しかし、男は向き直って再び板垣へ向かっていきました。

 

板垣は暴漢の手首を押さえようとしましたが、誤って拳を握ってしまい、刃先はそのまま左胸に刺さりました。

 

とっさに身をひねったことで刺し貫かれずに済んだものの、なおも男は刃物をふりかざして襲ってきました。

 

板垣はこれを両手で防ぎ傷だらけになるも、そばにいた同志の内藤魯一が暴漢に飛びついて取り押さえたため、板垣暗殺は未遂のうちに事を収めることができました。

 

「自由党史(1910年編集)」によれば、「このとき血だらけになった板垣は刺客を睥睨し、叫んで曰く『板垣死すとも自由は死せず』と神警の一語、満腔の熱血と共に送り出で、千秋万古にわたりて凜烈たり」と記されています。

 

板垣遭難の噂は、翌日から全国を駆けめぐり、命に関わる怪我ではないことも記されました。

  

犯人については「狂者かはた後の報道に見えたるごとく同君に宿意(恨み) を含める者か、何にもせよ政党樹立の公認にありて最も憂うべき報知と云うべし、しかして我々は同君のために、切にその安全を祈るのみ」と結んでおり、この段階で犯人の動機はつかめていませんでした。。

 

この犯人は、愛知県士族で小学校の教師をしていた相原尚裝(28歳)という者でした。

 

立憲帝政党(主君の権力による政治を掲げていた政党)の福地源一郎が主宰する東京日日新聞の熱烈な愛読者で、反対の立場である民権思想をとなえる板垣が許せず、刺殺のチャンスをうかがっていたのだといいます。

 

襲撃された板垣の姿を見た大野斉市は、出血のひどさに「ああ残念なるかな」と大声をあげて泣いたそうな。

 

すると板垣は「諸君嘆ずるなかれ、板垣退助死するも日本の自由は滅せざるなり、諸君勉めよや」と言ったとされ、数日経つと各紙が板垣は遭難の際に「俺が死んでも自由は死なない」と名文句を吐いたと大々的に報じるようになりました。

 

このニュースは、各地の自由民権家たちを奮い立たせ、ますます政府批判を活発化させることになりました。

 

板垣はこの暗殺未遂を政府の差し金だと思っていたようです。

 

同志に向けても「政府は我々自由党員を過激だと言っているが、政府のほうこそこんな過激なことをしているではないか!」と語っています。

 

民権運動の加熱に対して政府は、新聞紙条例や集会条例を出し、警察によって取り締まったり、多数のスパイを放って板垣の身辺を監視していたことが分かっています。

 

こういった経緯もあり、政府と自由党の関係は極めて険悪だったため、板垣が相原を政府の刺客と考えても仕方がない状況でした。

 

事件によって板垣は、“自由民権の神様”となっていくのです。

 

事件から八年後、実施された初の衆議院選挙で、板垣を総理(党首)とする自由党は総議席数300のうち130議席を獲得する最大政党となりました。

 

同じ民党系の立憲改進党41議席をあわせると過半数を超えるものとなり、帝国議会で立憲帝政党ら藩閥政府と堂々と渡り合っていくことになるのです。

 

さて、そんな板垣暗殺未遂事件ですが、板垣本人は「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を口にしていないという説があります。

 

刺されたとき板垣は言葉を発することができず、「板垣死すとも・・・・・・」と犯人 に向かって叫んだのは、犯人を引き倒した同志の内藤舎一だと言う説です。

 

というのも内藤は後日、この事件を取材に来た新聞記者に対し 「あれは俺が言った言葉だが、板垣が言ったことにしたほうが輝くから、そういうことにしておいてくれ」と内幕を暴露したそうです。

 

現在の説では、板垣は事件の前から同じような言葉で演説会しており、本人が暴漢に対して似たようなセリフを投げつけたのだろうということが有力となっています。

 

とはいえ、「板垣死すとも自由は死せず」という名言が喧伝されたことで、政府に真っ向から意見ができる政党を作り上げたということは確実に言えることでしょう。

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