この記事は、著書「絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検」を参考とした記事を書いていこうと思います。
教科書や資料集に載っているような日本史の史料から、絵や写真が取り上げられた背景などをまとめていきます。
史料から見える歴史の裏側を知ると、思わず「へ〜」と言いたくなる学びがあり、今の時代を生きるヒントが見つかるかもしれません。
今回取り上げるテーマは「大根をかじる子どもたち」です。
「大根をかじる子どもたち」は演出だった?
この写真は、昭和九年(1934年)岩手県青笹村にて撮影された子どもたちの写真です。
茅葺きの家の前でボロボロの服を着た三人の子どもが、大根を生のままかじっています。
この写真が撮影された年、東北はひどい凶作に見舞われました。(東北凶作、東北大凶作)
子どもたちの中には満足に食事すらとれない者もおり、彼らは「欠食児童」と呼ばれるようになりました。
悲惨さを漂わせるこの一枚ですが、一説にはこの写真はかなりの演出が含まれているのではないかと疑う見方もされています。
実は当時、東京日日新聞をはじめ各新聞社の記者や作家たちが東北地方に入り、飢権の取材を行っていました。
彼らは事の惨状がどれだけ悲惨な状況かを競って記事にし、メディアとして人気になっていました。
なので、あの写真も過剰な演出が行われた可能性は否定できないという意見が根強いのです。
クーデター事件を起こすほどの貧困
過剰な演出が指摘されるとはいえ、当時の東北地方が深刻な状況にあったことは間違いありません。
実際に日本の農村は、これよりずっと前から貧困状態にありました。
寄生地主制(農地の所有者が小作人に土地を貸し、農作物の一部を小作料として徴収するもの)が進んだことで小作農が増え、米の生産量が上がりました。
さらに1920年代になると、植民地でも米の生産が急増したことで供給過多になり、国内の米価は下がり続ける結果を生んでしまいます。
この状況であってもまじめな農民たちは、減収分を増産によって取り戻そうとしました。
例えば、「一つ100円の農産物が70円に下がってしまったら、努力して倍作ればよい」と考えたのです。
農民の多くが借金をして肥料や道具を整えましたがその結果は悲惨なもので、借金の利子が膨れ上がって返済できない農民が多く出現することになります。
そこから東北大凶作の年の直前、昭和五年(1930年)には米作が空前の豊作となり、さらに米価が大きく下落してしまいました。
しかもこの年に日本に昭和恐慌に見舞われ、アメリカが生糸と買わなくなったことで繭の価格も暴落、さらに翌年になると今度は東北と北海道が大凶作(農業恐慌)となり弱り目に祟り目という状況でした。
これに対して政府対策を講じざるを得なくなりました。
立憲民政党の浜口雄幸内閣は、昭和七年度から緊縮財政をゆるめ、 公共土木事業を拡大して農民を労働者として雇い入れ、現金収入を与えようとしました。
こうした政策は、立憲政友会の犬養毅内閣、さらに犬養毅が暗殺された(五・一五事件)後の斎藤実内閣も続けていきましたが、満洲事変の拡大に伴って軍事費が増大すると、公共事業は縮小せざるを得なくなりました。
また、こうした国民の貧困化が顕著に訪れた時代、青年将校といえばほとんどが農村出身でした。
畑や田んぼで育った彼らは、身内や親戚など田舎の様々なところで貧困の厳しさを感じていました。
それでも有効な手を打たない政府の無策な対応に怒った彼らが、五・一五事件や二・二六事件に代表されるようなテロやクーデターを引き起こすことになります。
その結果として、日本の軍国主義が進んでいったという側面も知っておかなければならないでしょう。
テロやクーデターは良いことではありませんが、そうでもしなければ動かない政府に辟易していたのでしょう。
さて、今の日本はどうでしょうか……。
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