梅毒は、梅毒トレポネームと呼ばれる細菌に感染することで発症する性感染症です。
東京都内での梅毒患者が、10年間で12倍(前年比1.6倍)に増えたことによって、近年再び問題視されています。
自然治癒はしない感染症ということもあり、放置することは感染の拡大のみならず、感染者の深刻な病状悪化を招き最悪の場合命を落とすとされ、各メディアから警鐘が鳴らされています。
今回はそんな梅毒の歴史についてのお話。
有史以来から存在するといわれている性感染症ですが、文献として残っているのは中世の頃からとなります。
かつての世界では、梅毒がどのように見られていたのかを覗いていきます。
梅毒の歴史
梅毒はもともと、南米の原住民の間で流行っていた病気だとされています。
1492年、クリストファーコロンブスが発見した西インド諸島、引いてはアメリカ大陸の発見によってスペイン国内に持ち込まれたと考えられています。
世界で初めて梅毒が認識(記録)されたと言われているのは、15世紀末期フランス王シャルル8世がナポリに侵攻した頃です。
1495年に勃発したフォルノーボの戦いに参加した軍医が、それらしき症状を書き残しています。
ナポリに侵攻したフランス軍は、兵士の間で膿を含んだ水痘が顔や体に現れたことによって、停戦を余儀なくされるほど広まってしまいました。
この時現れた病気こそ梅毒です。
医師はこの病気が性的接触によるものであることを見抜いていましたが、治療する手段はありませんでした。
シャルル8世の決定的敗北で終わったこの戦争の後、兵士は故国に帰っていき、それと同時に梅毒もフランスへ持ち込んでしまったのです。
梅毒は瞬く間にヨーロッパ中に広まりました。
ナポリに侵攻したことで持ち込んでしまったこの病を、フランスの人は「ナポリ病」や「スペイン病」(当時のナポリがスペイン領だったため)と呼びました。
また周辺諸国は、フランスから広まったこの病を「フランス病」とも呼びました。
現代では梅毒のことをSyphilis(シフィリス)と言いますが、これはイタリアの医師ジローラモが綴った詩“シフィリス、またはフランス病(Syphilis, sive Morbus Gallicus)”からきたものです。
シフィリスという豚飼いが、アポロン神を馬鹿にしたことで“全身がただれる”という罰を受けたことが由来です。
フォルノーボの戦いから3年が経過した1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ到着しました。
このときの乗組員が梅毒に冒されていたとされ、感染はインドをはじめ東南アジアへ広まり、1512年の記録では既に日本でも感染者が現れていました。(公家だった三条西実隆による記録)
江戸時代になっても流行が収まらず、解体新書で有名な杉田玄白も患者の半分は梅毒だったと記録しています。
抗生物質であるペニシリンが開発され、日本で使用できるようになった昭和22年までの間、流行病としてその脅威に怯えていた歴史があります。
抗生物質がない時代の治療
梅毒は症状によって第1期〜第4期までステージ分けされています。
・第1期(感染から3週間程度〜)
3mmから3cmほどの腫れ、潰瘍
感染部位にしこりなど
・第2期(感染から3ヶ月程度〜)
手足や全身に赤い発疹、発熱、倦怠感
・第3期(感染から3年程度〜)
全身で炎症
・第4期(感染から10年程度〜)
脳、心臓、血管に症状が現れる
身体の麻痺や動脈瘤、神経に異常がみられるなど
梅毒は自然治癒することがないため、治療法がなかった時代は第4期ステージまで進行する病気でした。
顔や体に腫瘤ができ、神経系も侵され、脳まで病原菌が巡ると認知能力も落ち、自分も分からぬまま命を落とす……。
それが梅毒にかかった者の末路でした。
そのため、様々な治療法が考案されました。
現代では有り得ませんが、水銀を体に塗ったり、サウナのような場所で気化した水銀を吸引したり、水銀そのものを飲んだりと、万能の薬と考えられていた水銀が用いられることが多々ありました。
もちろん効果はなく、逆に水銀中毒で命を落とすことさえありました。
梅毒の治療に関して効果的な方法が編み出されたのは1905年のこと。
ドイツの細菌学者フリッツ・シャウデンとエリッツ・ホフマンによって、梅毒の原因となる梅毒トレポネーマが発見されます。
翌年にはアウグスト・フォン・ヴァッサーマンよって梅毒トレポネーマによる感染を検出する手法(ワッセルマン反応)が考案され、梅毒の早期発見が可能になりました。
1909年になると日本の秦佐八郎とドイツのパウル・エールリッヒによって梅毒の特効薬サルバルサンの開発に成功。
人類史上初めて、梅毒の治療薬が誕生することになります。
しかしサンバルサンにはヒ素が含まれているため、ヒ素による副作用が問題ともなっていました。
1913年には野口英世によって梅毒に進行性麻痺があることが証明され、1917年には、オーストリアの医師ワーグナー・ヤウレックによって新たな治療法(マラリア療法)が発見されます。
マラリア療法は、マラリアに感染させることで41℃にもなる高熱を出し、梅毒の病原菌を死滅させるというものです。
人間の体温の限界は42℃とされていため、治療施したおよそ15%の患者は高熱が原因で死に至ったとされています。
1982年にはスコットランドの医師フレミングが青カビが最近の請求を阻止することを発見し、抗生物質ペニシリンを生み出したことで、梅毒を完全に制御することに成功したのです。
まとめ
・コロンブスの西インド諸島発見を機に、スペインに梅毒が持ち込まれる
・スペイン領だったナポリにフランスが侵攻したことで、フランスにも梅毒が広まる
・自由を謳歌するルネサンス全盛期だったこともあり、ヨーロッパ中に広まる
・ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を経てアジアでも流行り病に
・遅くとも17年の間で日本にも梅毒が到達
・治療薬が開発される数百年の間、不治の病として恐れられてきた
かつて恐れられた感染症も現代の医学ではその多くを治療することができ、その多くは人間がコントロールできるようになりました。
一方、近年では女性が梅毒を発症する比率が高くなっていることを受け、SNSやマッチングアプリによって不特定多数の人物と交流を持てるようになったからだとも指摘されています。
詳しくは政府インターネットテレビでも紹介されているので、気になる方はご参照ください。
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