今回からテーマにしていくのは、アダム・スミスの国富論です。
後に経済学の父と呼ばれ、“見えざる手”、“自由放任主義”で有名な人物ですね。
18世紀当時、経済学という分野が確率していない時代に、現代に通じる経済学の基礎を打ち立てました。
国富論では、分業が生産性を向上させることや、各個人の利益の追求が結果的に社会の資源分配に繋がることを体系立てています。
今後の記事では、岩波文庫から出版された国富論1~4をベースに、編や章のポイントまとめていきます。
彼がどのような思想のもとに国富論を書き上げていったのか……。
経済学の父の頭の中をのぞいていきます。
著作のまとめに入る前に、彼の生涯についても紹介したいと思います。
アダム・スミスの生涯と著作
アダム・スミスは現在のスコットランドに生まれました。
幼い頃から病気がちで、内向的な性格だったと言われています。
そんな彼には、時折りぼーっと自分の世界に入ってしまう“放心癖”がありました。
3、4歳のときには、放心癖のせいか誘拐されてしまうことも。
アダム・スミス年譜によると、1762年にジプシー(放浪者)に連れ去られたとされています。
その後のどうなったかはっきりしたことは分かりませんが、記録によると親元へ連れ戻されています。
一説では、誘拐犯によって盗みを仕込まれる予定でしたが、ぼーっとしていて使い物にならなかったため、元いた場所に返されたとも言われています。
放心癖のせいで連れさられ、そのおかげで戻ってこれたとしたら、中々面白いエピソードですね。
ちなみにこの放心癖は一生治らなかったそうです。
そんなスミスは14歳になるとスコットランドのグラスゴー大学へ入学します。
14歳で大学と言われると、現代の感覚では飛び抜けて勉学ができるように感じられますが、当時で言えば不思議なことではありません。
勉学で身を立てる人にとってはむしろ遅いくらいです。
大学では道徳哲学をよく学び、17歳になるとオックスフォード大学に入学します。
しかし、オックスフォード大学の教師のやる気のなさに落胆し、23で中退。
国富論ではこの大学の様子について「オックスフォードの教師は教える素振りすら見せない。」と述べており、当時の憤りをあらわにしています。
その後はエディンバラ大学卒業を経て再びグラスゴー大学へ戻り、倫理学教授に就任します。
この大学教授時代に代表作のひとつ“道徳感情論”を執筆しています。
道徳感情論を簡単にまとめると、社会は見知らぬ人同士が“共感”によって形成されているというものです。
この道徳感情論の反響は大きく、彼の名が世に知られるようになっていきます。
40歳になると教鞭を置き、貴族の家庭教師として3年ほどフランスで過ごすようになります。
その中で貴族、知識層と交流を持ち、帰国後に執筆を始めたのが“国富論”です。
国富論では、当時のヨーロッパの情景を細かく描写しており、国民の暮らし、貨幣の価値観、金や銀と物流のメカニズムを基に、富とは何かを説いています。
執筆に没頭することおよそ10年を経て、彼が53歳の頃に国富論を出版します。
その後は税関委員として働きながら、道徳感情論や国富論の改訂とその他の執筆を続けます。
彼が国富論に直接関与したのは、5回目の改訂まででした。
改訂第5版が出版された1789年の翌年、1790年7月17日に彼はこの世をさることになりました。
彼は死に際に、「未完成の原稿を燃やしてほしい」と友人に頼んだそうです。
スミスの死後、原稿の一部は残っており、天文学の歴史により例証された哲学的論究を指導し方向づける諸原理など、部分的にではありますが現代でも目にすることがでできます。
終わりに
以上、アダム・スミスの生涯についてまとめさせていただきました。
放心からの誘拐が定かだったか分かりませんが、誘拐されたことは事実なようです。
もしそのとき彼が帰らぬ人となっていたら、現代の経済学はどのようになっていたのか……。
そんな歴史のつまずきも興味深いですね!
さて次回からいよいよ国富論に突入します。
彼が考える富とは一体、見えざる手とは何なのかに迫っていきます。
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