第百九十四段
達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
達人の人を見る目には、間違いがあるはずがない。
例へば、或人の、世に虚言(そらごと)を構へ出して、人を謀る事あらんに、素直に、実と思ひて、言ふまゝに諮らるゝ人あり。
例えば、ある人が嘘をでっち上げ誰かを騙そうとしたときに、素直に信じて騙されてしまう人がいる。
余りに深く信を起して、なほ煩はしく、空言を心得添ふる人あり。
余りに嘘を信じ込みすぎて、自分で勝手に盛ってしまう人もいる。
また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。
また、何とも思わないで無関心な人もいる。
また、いさゝか実しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。
また、少し怪しいと思いながらも、本人が言う事ならばそういうこともあるだろうと考え込む人もいる。
また、さまざまに推し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほゝ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。
また、分かったように頷きながら微笑んでいるが、実は何も分かっていない人もいる。
また、推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。
また、考えた上で「あれは嘘だろうな」と思いながらも、「自分の考えに間違っているところもあるのでは?」と怪しむ人もいる。
また、「異なるやうもなかりけり」と、手を拍(う)ちて笑ふ人あり。
また、「当たり前のことだ」と、手を叩いて笑う人もいる。
また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。
また、嘘だと分かっていてもそれを言わず、知らない人と同じふりをしてやり過ごす人もいる。
また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構え出したる人と同じ心なりて、力を合わす人あり。
また、最初から嘘の意図を分かっているが、そのことを否定せず、嘘を言いだした人に協力する人もいる。
顔にても、隠れなく知られぬべし。
(達人の前では)顔の表情からも知られてしまう。
まして、明らかならん人の、惑へる我等を見んこと、掌(たなごこころ)の上へ物を見んが如し。
まして、ものや道理を分かっている人が迷いのある我々を見ることは、手の平の上のものを見るようなものだ。
但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにあらず。
ただし、このような考えは仏法にまでは同じように言うべきではない。
人が嘘をつかれたときの様子を兼好法師がまとめた話ですね。
①疑わない人
②信じすぎる人
③無関心な人
④考え込む人
⑤一人で納得してしまう人
⑥分かったふりをする人
⑦優柔不断な人
⑧楽観的過ぎる人
⑨知らないふりをする人
⑩相手の嘘に乗っかる人
彼はこの10項目に当てはまる人は愚かだと言っています。
疑わない人や考えすぎる人もそうですが、知っているのに黙って見過ごすことも良くないということですね。
誰かと話す時には、何かしらの仕草が出ているものです。
興味のある話題になり、空返事だった相手が前のめりになる仕草…。
逆に今まで楽しそうに話していた相手が、興味を失ったように目を下げる仕草…。
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自分の言いたいことだけを話すのではなく、相手の話も聞けるよう心がけたいものです。
【蛇足】
最後の“但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにあらず。”という分の意味はどういう解釈なのでしょうか。
仏法における“嘘も方便”という言葉を肯定しているのか…、それとも達人の眼力も仏法においてはその限りではないと但し書きをしているのか…。
まだ勉強する余地が残っていますね。
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