今回紹介するのは、ドイツの哲学者ショーペンハウアーが著した名著のひとつ“読書について”です。
「読書とは他人に物を考えてもらうことである。」
と説いたこの本には、ただ本を読むことについての無意味さや、読むならこうすべきという著者なりの考えが書かれています。
本を読むことを批判しているのではなく、その読み方についての指南書のような一面を感じることができる本著についてまとめていきます。
読書についての概要
この本は、
・思索
・著作と文体
・読書について
という3つの章に分かれています。
読書についてというこの章の本題については、本全体の1〜2割程度の量でしかまとめられていません。
この記事では“読書について”以外の章についてもまとめていこうと思います。
思索
第一章に当たる“思索”は、知識は自分で考え抜いたものこそ真の価値があると述べています。
物事を沢山知っていることよりも、自分で考え抜いた一つの知識の方が遥かに価値が高いと考えているようです。
しかし私たちが考え抜けるものは自分自身が知っていることだけであるため、知るためにはまず学ばなければならないと言っています。
さまざまな知識と比較、検討し、知識を完全に駆使できるようになってこそ初めて一つの真理をものにできる……と章の始めにまとめています。
そんな前おきの中で彼は、
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
と早くも述べています。
読書で生涯を過ごし、様々な本から知恵を汲み取った人は、旅行案内書を読んでその土地に精通していると言っているようなものと例えています。
このように一貫して自分の頭で考えることの大切さを伝えているのがこの“思索”の章です。
章の最後に、思索する者(思想家)の中には2つのタイプについてまとめています。
1つ目は“ソフィスト”です。
周りの人々から“思想家であると思われたい”という願望を持ち、名声の中に幸福を見出すタイプです。
2つ目は“哲学者”です。
自分自身のために思索した思想家のことを指し、何かを知る努力に幸福を見出すタイプです。
まさに“知を愛する者=哲学者”ですね。
著作と文体
第二章にあたる“著作と文体”は世間に溢れる本の書かれ方を批判した内容が主になっています。
ここでも著作家を“事柄そのもののために書く者”と“書くために書く者”の2種類に分けて説明しています。
事柄のために書く者は、自分の思想を所有し、経験を積んでいて、それを伝達する価値があると考えている者のことです。
書くために書く者は、金銭を得るために書く者です。
彼らは原稿用紙を埋めるためにできるだけ物事をひっかき回し、刺激的で真偽が曖昧な書き方をします。
彼が言うところでは、そんな刺激的な文言に寄ってくるのは新刊以外を読もうとしない愚かな民衆たちであると言います。
彼らは読者の愚かさを頼りに生きているため愚かな文章を書き続け、その結果言語が墜落することになるそうです。
言語が墜落するとはどういうことでしょうか?
この章ではこの言語の墜落についてをメインに述べられています。
ショーペンハウアーは欲しい情報や思想を得るためには、本の創案者や定評のある専門の大家が書いた古書が好ましいとしています。
古書の多くは読み継がれるなりの根拠があり、著者の経験なども踏まえて考え方が受け継がれています。
もちろん新たな根拠によって古書が改善され、もっと価値のあるものになることもあります。
しかし金銭を得るために書く者の中には、自己主張のために斬新なものを持ち出そうとする者がいます。
大体そんな人たちがとる行動の多くが、これまでの正しい有力な学説に反駁することだそうです。
そしてその際、古書の言葉を歪曲して書いたり言葉を省略して伝えたりと、本来伝えたいものとは別の言葉になって世間に出回ってしまうことの害悪さを述べているのがこの章です。
読書について
第三章に当たるのが、本著主題のテーマ“読書について”です。
冒頭に、
「読書は、他人にものを考えてもらことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。」
と主張しています。
読書の際にはものを考える苦労がほとんどないと言っており、読書ばかりしていると次第に自分でものを考える力を失ってしまうと言っています。
ショーペンハウアーはこれを食べ物を例にとって考えをまとめています。
食べものは食べることによってではなく、消化によって我々を養います。
本も読むだけではなく、読んだ後でさらに自分の頭で考えてみなければ意味がないと言っています。
とにかく自分で思考(思索)する大切さをとことん述べているのがこの章になります。
ここまで批判的な内容が中心となりましたが、彼は読書をすることで得られる効果についてもまとめています。
才能を備えた著作家のものを読んでも、何一つその才能を自分のものにすることはできません。
しかし自分が著作で表される才能を“可能性として持っている”場合には、読書によってそれを呼び覚まし、明確に意識することができると言います。
また読書によって才能を駆使したいというモチベーションを高めることや勇気を強めることができたり、様々な例に照らして具体的な使い方を知ることができると述べています。
ただし、この場合は才能がある前提の話であり、それを欠いている者はただ生気に乏しい冷たい手法を学ぶだけであると注意喚起もしています。
最後にこの章で書かれている“読書に際しての心がけ”をまとめて終わりにしようと思います。
その心がけとはズバリ、“読まずに済ます”ということです。
彼はこの世には現代の流行を取り入れた内容の薄い、いや薄いどころかむしろ害がある悪書が溢れていると言います。
人間の時間と力は有限であり、悪書はその貴重な時間を奪いとる悪そのものだという考えを彼は持っていたようです。
そんな悪書を読まずに済ますことが、本を読む上での大切な心がけになるのです。
読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版を重ねる本はいくつもあります。
しかしそんな本の寿命は精々もって1年。
2、3も経てばあれだけもてはやされた作品は忘れ去られてしまう……。
時代や人種を越えて持続する文学こそ真の文学なのであると彼はまとめています。
終わりに
さてさていかがだったでしょうかショーペンハウアーの読書について。
ただ読むだけでは意味がない、自分で考えてこそ知識となるという本質を突いた著作です。
本を読むなら流行り本ではなく古典を読むべしとも言っていますね。
自分も本を読んだ際にはもっと思索し、自分の経験やあり得る事例に当てはめる癖を付けなければと気づかされる内容でした。
インプットだけでなくアウトプットは大切ですね!
それではまた!
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