ソシュールに続き、言語学や哲学において多大な影響を与えたウィトゲンシュタイン。
彼もまた哲学に魅了され、取り憑かれた人物の一人です。
現代哲学への扉を開いたとも言われる探求者の頭の中を覗いてみましょう。
世界を写し取る“言葉”
この世界は言葉がなければ認識できない。
ウィトゲンシュタインは言葉についてこう述べました。
「言葉は世界を写し取る写真である」
「海でマグロが泳いでいる」という言葉(言語)は、正に海の中を海流をかき分け、マグロが生きて泳いでいるという事実を表しています。
誰が見てもそうであるという事実は、言葉によって写し取ることができると彼は主張しました。
ソシュールが言った「言語によって世界を区切ることができる」という考え方に似ていますね。
このように、私たちが認識している世界は、言語がなければ認識することができないと考えた人物がウィトゲンシュタインです。
日常言語と科学的言語
彼もソシュール同様に、言語には2面性があると主張しました。
一つ目は日常言語(自然言語)です。
「今日は暑いですね」「お腹すいてませんか?」など普段私たちが日常的な会話で使っている言葉たちです。
二つ目は科学的言語です。
上で例えた、「海でマグロが泳いでいる」などの自然科学的な現象を、世界の中から抜き取った合理的な言葉です。
ウィトゲンシュタインが自身の著作である“論理哲学論考”を書いていた頃、科学的言語こそ重要であると述べていました。
客観的な世界は、科学的言語によって全て写し取れると考えていたのです。
写し取れるものの例外
神は死んだ。
しかし例外もあります。
ニーチェが言った「神は死んだ」という言葉はどうでしょうか?
ウィトゲンシュタインは神の存在などそもそも認識しえないことについての興味は薄く、あくまで科学的、論理的な認識を重要視していたとされています。
“論理哲学論考”ではこのような問いの答えとしてこう述べています。
「語りえぬものについて、ひとは沈黙しなければならない」
語りえぬものとは一体何なのかについても一考の余地がありますが、ここでは事実として認識できる事象や感情としておきます。
以上で前編は終わりです。
ウィトゲンシュタインが科学的言語を重要視している姿勢が見えてきましたね。
後に彼は、日常言語の重要性についても考えていくことになります。
後編では彼が日常言語から考えた“言語ゲーム”という概念を軸にまとめていきます。
(後編記事へ続く…。↓)
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