ツタンカーメンの父アクエンアテン(アメンホテプ4世)は、エジプト史上初の宗教改革を行いました。↓
父がアテン神を篤く信仰していたこともあり、彼は“トゥトアンクアテン(アテン神の似姿、生まれ変わり)”という名を授かりました。
アクエンアテンの王位を継承したのは、彼が9歳の頃でした。
アクエンアテンの死後、トゥトアンクアテンは首都をアケト・アテンからテーベに戻しました。
これには、父が始めたアテン信仰から伝統的なアメン信仰に戻す意味合いがありました。
そのとき名前も“トゥトアンクアメン(アメン神の似姿、生まれ変わり)”に変更し、現在でも“ツタンカーメン”として広く知られています。
・小考察
ツタンカーメンは、本当はアメン信仰に移す必要はないと考えていたと感じる部分があります。
理由の一つに、アメン神官の力が強大過ぎたため、父亡き後の政治権力を握られていた可能性が高いことが挙げられます。
また神殿の王名標にあるはずのツタンカーメンの名前が記されていないのも、彼を歴史から葬り去ろうとした跡だろうと考えられます。
少なくとも父であるアクエンアテンを敬愛していたことは、彼の玉座に記されている“トゥトアンクアテン”の刻印から感じ取ることができます。
ツタンカーメンの死
そんな彼は19歳でこの世を去ることになります。
頭蓋骨の破損から、“誰かに撲殺された説”や“足の骨折による衰弱死節”、“病死説”など彼の死については謎が多いです。
2010年にはエジプト考古最高評議会の研究チームが、遺伝子検査やCTスキャンによって1つの答えを導き出しました。
虚弱体質であったツタンカーメンは、何度も病気にかかった形跡があり、中でも致死性の高い熱帯熱マラリアにかかってしまったことが分かっています。
更に免疫力が低下している中左足を骨折し、回復の遅れからこの世を去ったという説が有力です。
ツタンカーメンの黄金のマスク
決して力の強いファラオではなかったツタンカーメンが世界に知れ渡ることになるのは、彼の王墓がほぼ手つかずの状態で発見されたからでした。
当時、王墓の埋葬品などは盗まれて当たり前の時代。
発掘隊が新たに王墓を発見したとしても、発見を聞きつけた墓荒らしによってその日の夜のうちには盗まれているということが多くありました。
そんな中、政治的意図によって王名表にツタンカーメンの記載がなかったことや、ツタンカーメンの墓の上に別の王の墓をつくるための作業小屋があったことなど様々な偶然が重なり、ツタンカーメンの墓は暴かれることも荒らされることもありませんでした。
110kgの純金製のマスクをはじめとする豪華な装飾品から、当時のエジプト王朝は大きく繁栄していたことを裏付ける証拠になったのです。
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