筏に乗った147人の内、極限状態を生き延びたのはわずか15人。
王党派による采配ミスが原因とされています。
当時のフランス復古王政のもとでこれを隠蔽しようとしたフランス政府でしたが、生存者の証言や反政府のメディアによって国際的なスキャンダルにまで発展していきます。
そんな大きな事件をテーマに描いたある人物は、後に美術界に大きな影響を与えることになります。
今回はその人物と彼の傑作“メデューズ号の筏”についての紹介です。
テオドール・ジェリコ
テオドール・ジェリコは19世紀フランスで活躍した画家です。
弁護士で資産家の父を持つ家庭に生まれ、親の反対を押し切り画家の道を志します。
いくつか絵の師の下で修業を積み、神話画や聖書画など慣習的な古典美術よりも、身の回りの出来事や動きを描くことを好みました。
師の下を離れた彼は、美術館に足を運んではミケランジェロやルーベンス、ティツィアーノなどの巨匠の絵を師にし、絵の技術研鑽に励みました。
彼は馬を描くことにこだわりを持っており、落馬によって持病が悪化しこの世を去るまで馬を描き続けることになります。
彼の才能が垣間見えたのは、21歳頃にサロンに絵を出品したときのことです。
彼が描いた“突撃する近衛猟騎兵士官”がサロンで金賞を受賞します。
戦場の緊迫感と士官の凛とした姿、そして何より馬の躍動感が感じられる一枚です。
一躍時の人になった彼ですが、ナポレオン失脚後の動乱の世において、国ために近衛騎兵に志願するなど一時的に絵を離れることにもなります。
しばらくしてナポレオンが勢力を復活させルイ18世が亡命した時を境に、彼は再び筆を握ります。
そしてフランスに戻った彼が描いた作品が“メデューズ号の筏”です。
メデューズ号の筏
メデューズ号事件が起こってからすぐ、彼はこの事件を絵にし始めました。
彼は二人の生存者から状況を聞き取ったり死体安置所や病院の重篤患者をスケッチしたりと、絵に関して徹底して準備を重ねました。
友人で後輩であるドラクロワ(民衆を導く自由の女神で有名)にもモデルを頼み、横たわる男のポーズをモデリングさせてもらったりもしたそうです。
こうして完成された彼の作品は綺麗なピラミッド型の構図になっており、船を発見し希望を見つけて布を振る者と力尽きて死に行く者の対比が見て取れます。
この絵は当初、政治的圧力もあってフランスでは非公開とされました。
しかし興味を持ったイギリス人興行師の手引きによりイギリスにて公開。
大きなスキャンダルとしてフランス国内外の関心を寄せることになり、ジェリコの名は再び世間に知れ渡ることになりました。
最後に~ジェリコとロマン主義~
ジェリコはしばしばロマン主義の先駆者とも言われます。
ロマン主義に決まった定義はありませんが、個の主観や欲求を重視したり神秘的なあこがれを表現することが多いです。
未知への探求心には恐れや不安も伴い、そこから脱却する(自由になる)という発想も生み出しました。
これらのことからも“メデューズ号の筏”は、古典的な形式にとらわれず、体制や権威からの脱却を描いた情緒的(ロマン)な絵だったのです。
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