聖書や神話の正しさや美しさを重んじる古典主義(及び新古典主義)。
18〜19世紀前期になると、古き芸術に対抗するように、今起きていることを情緒的に描き出すロマン主義が生まれます。
それに続く19世紀中頃、“あるがままの今(リアル)”を映し出す写実主義が台頭してきます。
今回は写実主義で有名な絵画のひとつ“落穂拾い”について紹介します。
落穂拾い
落穂拾いはフランスの画家ミレーによって描かれた作品です。
刈り入れが終わった後、残った落穂を拾う貧しい農婦の姿を描いています。
絵の右奥には馬に乗って支持を出す監督者の姿が見えます。
彼は支配階級の人物であり、そのすぐ左にいる農民たちとの対比が見て取れます。
この頃のヨーロッパでは、収穫物の1割程度は残るように刈り入れる習慣がありました。
これは聖書(旧約聖書)レビ記23章22節に書いてある文言(法)からきている習わしです。
「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。」
この落穂拾いも、その農民の習慣をそのまま切り取った作品です。
ジャン=フランソワ・ミレー
この絵を描いたミレー自身、農家の9人兄弟の長男として生まれ、後継ぎとして期待されていました。
家は勤勉な農家であり、彼自身農業を手伝いながら育ちましたが、18歳になる頃に画家を目指します。
パリの国立美術学校では、ナポレオンなどを描いたことで有名な歴史画家のポール・ドラローシュの下で絵を学びます。
この頃からミレーは、歴史画を描くことに憧れを持っていたそうです。
学校にて絵の勉強を続けるも、歴史画を描くに当たって重要とみなされるローマ賞に落選すると同時に学校を去ります。
しかし翌年のサロン・ド・パリにて肖像画を描き初入選、肖像画の依頼を受けるようになります。
その後は妻との死別や再婚と共に拠点を転々とし、再びパリにて活動を始めます。
この頃は生計を立てるために女性の裸体を多く描いていましたが、彼の絵の評価は「女性の裸ばかり描いているミレーという画家の絵だ。」というものでした。
これを耳にしたミレーは、自分が描く絵の在り方を見直します。
それまでの安定した収入を捨て、二度と裸婦画は描かないという決意の下、自分が寄り添った農園の風景を描くようになります。
1848年(34歳頃)、国の展覧会で彼の絵が注目を集めます。
彼が出品したのは農民の姿を描いた一枚。
当時、聖書の情景以外で労働者を主題にすると、格式が低い絵とみなされる傾向がありました。
しかしこの絵を出品したのはブルジョワ中心の7月政府を打倒した2月革命後のサロン。
そんな社会情勢もあり、第二共和制政府には高い評価を受けました。
また絵の人物がフランス国旗を表す青、白、赤のトリコロールであることも評価され、絵は国によって買い取られることになります。
これを機にミレーは農民を中心とした絵の依頼が増え、収入も名声も上がっていきます。
そした背景の中で完成した絵が“落穂拾い”だったのです。
彼は農民画家として大成しましたが、彼の絵には聖書をモチーフとして取り入れたものが多くあります。
これはあくまで歴史画として評価されたかったという意志もあったと言われています。
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