妻が強制収容所に送られたら私も共に死のう~ヤスパース②~

哲学
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前回記事ではヤスパースの生い立ちと教育と、彼がどのような思想のもとで育ってきたのかについて書いていきました。

 

今回はヤスパース自身のストーリーについて触れ、彼がどのように哲学の世界に入っていったのかをまとめていきます。

 

 

医学の道を目指す

カール・ヤスパース

 

1901年、ヤスパースはミュンヘン大学に入学しました。

 

彼は大学での学びを実生活で活かすべきと考え、法学を学び弁護士の道を歩みはじめます。

 

もともと哲学を高く評価していたものの、自身が哲学を専攻して学ぼうとは思っていいなかったようです。

 

しかし、途中から同時に通っていたハイデルベルク大学の医学部に転入します。

 

自身が抱えていた病気のことも踏まえて、実生活の学びを医学という形で役立たせようと考えたのかもしれません。

 

1909年には医学の学位を取得し、その後精神医学教授の助手として勤務。

 

勉学に励みつづけた彼は、その頃にはハイデルベルクの哲学教授に就任もしており、1912年には大学の哲学部正教授になっています。

 

そして1931年に著書”哲学”を出版したことが、彼の本格的な哲学人生の出発点となるのです。

 

 

ゲルトルート・マイヤーとの出会い

彼が20歳(医学部生)の頃、こんな手記を残しています。

 

「私は死んだ人間だ。友と言えるものとの魂の分かり合いはなく、女性の愛もなく、何かを生み出す力も無い。今私に生きる目的はあるのだろうか。」

 

このような言葉を残した理由として考えられるのは、当時患っていた彼の病気が一般的に30歳程度までしか生きられないとされていたことがあります。

 

不安定な精神状態だったこともあり、死や人間の本質を考える哲学に思考を巡らせるようになっていきます。

 

そんなときある人物と出会います。

 

同じ医学生だったエルンスト・マイヤーと、その姉であり後にヤスパースの妻になるゲルトルート・マイヤーです。

 

エルンストとは何でも話せる親友のような間柄になり、ゲルトルートとは自身が抱えていた哲学的な考えを共有する仲になりました。

 

特にゲルトルートはドイツが反ユダヤに傾く中自分がユダヤ人であることや、肉親が慢性的な精神病であったこと、友人が自殺したことなどなどもあり精神病的な悩みを抱えていました。

 

だからこそヤスパースの未来への悩みなどが理解できたのかもしれません。

 

彼女たちとの出会いはヤスパースが哲学を学ぶだけの意味を与えました。

 
 

結婚とユダヤ人の迫害

アウシュビッツ強制収容所

 

1910年、ヤスパースは27歳でゲルトルートと結婚しました。

 

ゲルトルートは病弱だったヤスパースを支え、彼はその間に精神病理学総論や現代の精神的状況、そしてを“哲学”を出版するに至ります。

 

1933年になるとヒトラーが政権をとりナチスによるユダヤ人迫害が始まりました。

 

ゲルトルートはユダヤ人であったため、迫害の対象となりました。

 

ヤスパースは彼女と別れるか大学教授の職を追われるかの二択を迫られます。

 

彼は“私の哲学はゲルトルートとともになければならない”との意志を強く持ち、離婚の要請を断ります。

 

その結果、彼の著書は出版禁止&差し止めになってしまいますが、彼はこの頃著作したとされる“真理について”の執筆を続けていました。

 

 

強制収容所

 

時代は第二次世界大戦末期。

 

戦況が悪化しナチス政権の影響が強くなるにつれ、ユダヤ人の迫害も日に日に増していきました。

 

彼らの身近なユダヤ人も、かの悪名高き強制収容所に送られていきます。

 

ヤスパースも、

「ゲルトルートが強制収容所に送られたら、私も共に死のう。」

悪しき時代の波に飲まれる覚悟を決めました。

 

そして遂に収容所へ送致(身柄の引き渡し)が言い渡されます。

 

最初の送致は自宅に2人で立て籠もり阻止に成功します。

 

しかし、それも強制的に移送されるまでの僅かな時間稼ぎにしかなりませんでした。

 

もはや死ぬしか無い状況まで追い込まれた2人。

 

そして運命の日は訪れます。

 

1945年3月30日、その日アメリカ軍はハイデルベルクを占領します。

 

その場所はヤスパース夫妻が住む場所でした。

 

アメリカ軍の侵攻によって、ゲルトルートは強制収容所への移送を免れることができたのです。

 

収容所へ強制移送まで数十日に迫ったときの出来事でした。

 

ヤスパースは後にこう語っています。

 

「自分の国により殺される寸前、敵国の軍隊によって命を救われた。」

ゲルトルート・ヤスパースとカール・ヤスパース

 

この体験をはじめ後の東西冷戦や国家間による核兵器研究の競争は、彼の哲学に大きな影響を与えたとされています。

 

彼は戦後、ハイデルベルク大学の復興に協力するも裏切り者のレッテルを貼られ、言われもない誹謗中傷を受けます。

 

1948年になるとドイツを離れスイスのバーゼル大学の哲学教授として13年間勤務。

 

1969年2月26日、バーゼルにて人生の幕を閉じました。

 

 

以上がヤスパースの生涯のあらすじです。

  

愛に満ちた教育を受けながらも、病気による不安や戦争による混乱の中に生きた人物でしたね。

 

そんな限界状況を体験した彼の哲学とはどのようなものだったのか…。

 

次回の記事にてまとめていきます。

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